「コミュニケーションと言語」・1

一般にコミュニケーションの観点からすれば、言語と語彙的肉体表現(ジェスチャーや表情、しぐさ)では語彙的肉体表現の方が容易になる。
特定の行動や表情に意味を持ったものを語彙的肉体表現と言うが、言語の場合は例えば英語を知らない日本人と、日本語を知らないイギリス人が接触した場合、両者は言葉による意思の疎通よりも、体で表すしぐさや表情での理解度が言語での意思疎通より高くなる。
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従って語彙性を持った人間の行動とは「言語」の一部であり、言語の始まりはつまりこうした「行動」だと言うことができる。
だがこうした語彙を持った行動、しぐさなどは民族や国家によって比較的近いように見えて、実は遠い部分も持っている。
欧米では比較的ポピュラーな「握手」だが、もともと握手によるコミュニケーションの伝統が浅い日本人にとって、この握手はなかなか難解なものであり、一般に日本人の握手は弱めであり、それが相手に伝わるときは「消極的」「意思の迷い」などとして受け取られやすい。
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欧米、例えば厳しいことを言うならイギリスでは大体「握手」には5つの段階があり、こうした微妙な握手の差によってお互いが意思を確認している。
firm handshake 「誠実かつ堅実な握手」、これが握手の最上級になるが、大きく手を開いて、自分の親指と相手の親指がくっつくまで深く、しかもしっかりと握り締める握手は、親愛の情や尊敬、畏敬と言った相手に対する気持ちと、それに答えるだけの自身のプライドを表わすことになる。
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またbone crusher 「攻撃的挑戦的な握手」は、その名の通り、相手を威圧するように力を込めた握手であり、こうした場合の最も端的な例が、選挙などで意思の強そうな候補者が良くやる、あの握手である。
走りよってきて、勝手に人の手を取り、「俺の言うことを聞け」と言わんばかりの目でこちらを見つめて、強く手を握るあの握手を、欧米一般ではどう受け取るかと言えば、「屈辱」であり、私を征服しようとしているのか・・・、と思われることになっているのである。
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Finger shake 「間接拒否握手」、これは手を開かずに指だけを差し出すもので、また相手が握手をしようと瞬間、僅かに手を引いて指しか握れないようにすることを指しているが、この握手の意味するものは「積極性の無い同意」ではなくむしろ「間接的微弱な積極性拒否」である。
極端に自分に自身が無いか、「この話には乗れませんよ」と言うことを指していて、更には「あなたのことも信用できないし、尊敬もできませんよ」と言っていることになるが、日本人は傾向としてこのパターンの握手になりやすく、気をつけないといけない。
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Dead fish 「無関心握手」、これが多分握手としては最低になろうか、ただ棒のように手をだらんと下げて差し出すもので、それでもと思った相手がこの握手に応じた場合は、例えば気分としては「金」を盗まれた、また自分の気持ちが盗まれたような気分になるのであり、これだったら特別な思いが無ければ握手を拒否した方がまだ良い。
王侯貴族と庶民、地主と小作農の関係ならまだしも、この握手には相手に対する侮蔑や、低い地位を指摘しているような部分が有り、公平性を欠く行為にしかならない。
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そしてpoliticisn’s handshake 「過剰性握手」、いわゆる処の選挙に措ける候補者の握手にも近いが、それより少しは互いに親愛の情があって、右手で握手をしたら左手でそれを包み込み、その上左手で相手の手首から肩、更には首や頬までなでると言うこの握手、これは母親が子供にする場合、また恋人同士であれば、最も親愛な感情を表すことになるが、例えば余り親しくない女性や、それほどの関係ではない場合には、相手を支配している、または支配しようとしていると取られてしまう。
おそらくどうだろう、「友」と言う関係であれば、既にこの感じは誤解を与えることになるように思う。
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                    「コミュニケーションと言語」・2に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

1件のコメント

  1. 「コミュニケーションと言語」1・2

    外国の人と挨拶をする機会が増えて行って、握手することには、それなりに慣れたが、自分の手は兎も角、厳しい環境のところが多かったので、相手の手が汚いかも知れない、と言う恐れも有るし(笑い)・・でもまあ、感触で体力や日頃の手の使い方などが分かって良い面もある。未だに日本人同士が、握手するのは、馴染めないが、拒否する事は無い。

    日本人が、国外で或る程度離れていても、相手を視認して、立ち止まり、少しの間、顔を見て、20度程度のお辞儀をして、相手が緩い答礼をして、立ち去った後、直って暫し見送り、緩い動作を以て、その前の状態に復帰するのは、優雅で有り、挨拶の意義も良く出ている。

    動物には、その種独特の挨拶行動が有り、コミュニケーションの形式が有り、例えば、匂いをかぎ合う~毛づくろいをし合う~超音波で、存在を確認し合う。ヒトも文化やその社会の歴史によって、各種あり、或る程度、その形式で、行うのが好ましかろうと思えるが、言語は文化の理解無くして、通じることが無いばかりか、強い誤解を生じせしめるので、注意すべきであろうが、間違った翻訳機を組み込まれて、間違った意思表示となる事も十分気を付けるべきであろう。

    自分は必要とされていないとか、もっと認められてしかるべきだとか、自画像が大きすぎるロクデナシが増えたが、社会に関わり始めたころから、或る意味真のコミュニケーションもそのための言語も、勿論それ以前の役割分担能力の獲得も無く、妄想だけが育てられた人々の割合が急増しているかも知れない。

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