「民主主義」・1

正義だから勝つ、または正義だからそれは正しい、などと思うかもしれないが、実はそうとは限るものではない。
正義と、何かに勝つと言うことは別のもであり、従って正義が勝つと決まっている訳ではない、ましてや正義などと名がつくものは必ず何らかの対象、即ちここでは不正や「悪」と言ったものが前提となっているが、この世に完全な正義と完全な悪は存在しない。
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同じように民主主義と言う言葉も、民主主義、つまり民衆の意思が政治や国家に反映された状態、またはそうしたことを標榜することを言い、そこに人々は正しい帰結をも望むかも知れないが、民主主義だからと言って幸せになるわけでもなければ、正しい訳ではない。
民主主義は一つの思想、方法であり、それと国家の運営やその繁栄、民衆の生活の向上や福祉の向上などは別の問題である。
だが一般に民衆は民主主義であれば、それで国家が正しく動けば、繁栄があると思ってしまう傾向にあり、このことが不幸の始まりとなる場合があることを考えなければならない。
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また民主主義とは国家と言う共同体の在り様を最終的に決定する「権威」が、個人の集積である国民にあるとすることから、これは特段国際社会に対して、その独立性を表しているのではなく、あくまでもその当事国内部に措ける「政府」並びに「権力」の正当性を表す方法の1つに過ぎない。
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従ってこの場合、例えば独裁国家であっても、その独裁政権が民衆に対して最終意思決定権を開放した状態であれば、これは民主主義であり、反対に民主主義を主張しながら、民衆の意見を無視した状態の政治や権威であれば、これは民主主義に非ず、集団的独裁政権であり、このことは言葉や文章で幾ら民主主義を対外的に主張しようとも意味を成さず、そもそも自国が民主主義であることは対外的に示すものではなく、自国民に示されるべきものである。
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民主主義の根幹である主権在民、この思想は中世までのヨーロッパであれば、乱暴な言い方をすれば国家の主権は「神」にあり、これに携わる者と、この権威を利用する者にあって、例えば国王などが存在し権力を振るうとき、その権力を支える「権威」は「神」だったものが、フランス革命やアメリカ独立戦争を得て後、社会契約思想の背景が台頭するようになる。
即ちこうした革命前後から、それまで権力を支える根拠である「権威」が「神」にあったものが、国民の手に移ったのである。
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フランス革命以降、いや正確にはその前後になるが、唱えられ始めた主権在民、国民主権論、しかしここで言う主権在民という概念は、必ずしも社会に実在する個人の集積としての国家を概念していない。
ここで言う「国民」とは個人の権利を主張したものであって、個人の自由、独立、その思想の多様性を認める事を本旨としている。
だからこの革命で市民が概念する国家像は非常に抽象的で、国民が主権を主張、または行使できる存在にはなっておらず、ここで主権を行使できるものは、国民の信認を受けた「代理人」が正規の統治権者、またはそれを行使できる存在として考えられた。
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そしてこの思想は現代に措いても変わっていない。
現在の国際社会で民主主義を唱える国家のありようは、その殆どが「半直接民主制」であり、民主主義的な政治形態を考える上で、直接民主政治であれば、国民が直接立法を行い、この場合は議会すらも必要としないが、よほど小さな社会でない限り、こうした方法では成り立たない。
従って選挙を行い、それで選ばれたものが議会を通して国民の権利を行使する形となっている。
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しかし、基本的に民主主義は間に入る権力を否定することから始まったものであり、こうした観点から見れば、半直接民主制は民主主義とは相反する考え方でもあるが、これは一種の妥協点とも言え、基本となるものは押さえ、その次は代理人に任せようと言うことである。
それ故国民にはイニシアチブ(国民発案)の権利とレファレンダム(国民表決)の権利が与えられ、前者は一定の国民が発議した法案については議会審議が規定されることを指し、後者は議会が決定した立法について国民の判断を仰ぎ、国民判断の方が最終決定となることを指しているが、この2つの権利を持つのが現代の考え方である。
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国際社会を見ても現在各国の憲法が採用している民主制の多くはこの半直接民主制であり、アメリカ合衆国、スイス連邦などは言うに及ばず、第二次世界大戦以降に制定もしくは改正された多くの憲法は、1947年イタリア憲法、1958年フランス憲法などを初めとして、大部分がこのイニシアチブとレファレンダムを採用している。
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だがこうした観点から日本国憲法を見ると、日本国民が民主主義を実感できる権利の行使は、98条の憲法改正について必要な表決を認めるとする、これだけの権利でしかない。
国政レベルでは国民発案(イニシアチブ)が認められていないことから、日本の民主主義は半直接民主制の初歩段階のものと言え、現代社会が民主主義の道を求める中では、民主主義的要素の薄い民主主義である。
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また現代社会がこうして民主主義を希求する一方で、例えば日本やイギリスなどを見てみると、ここには依然として天皇や女王などが存在し、こうした国はヨーロッパを始めとしていまだに多数存在しているが、これはどう判断すべきか・・・。
立憲君主制は基本的に立法の権限が、国王など特定の個人に集約される制度だが、これを打倒して民衆の手にその権利を取り戻そうとするのが民主主義なら、立憲君主制は民主主義とは対極にある。
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しかしこうして現代に至ってまでもこうした君主制が残ってきた背景、それを考えるとき、おぼろげながら見えるものは、民衆や大衆の自身に対する恐れではないだろうか。
完全に民主主義を目指すなら、君主は存在できない、しかしこうして国民がその君主を自身に返ってきた権限をして容認、または肯定する形で存続させてきた経緯には、少なからず民主主義の危険性がその先に見えていたからではないかと考えられる。
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                            「民主主義」・2に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「民主主義」1・2

    今の社会に類似した社会がまだ1000年後もそれなりの大変更が無くして継続していたならば、きっとその人々の感慨は:-

    20世紀を挟む500年間ぐらいは、民主主義と言う名の、愚劣な政体を誰もが、まだ信じていて、実施していたのであるが、その実態は、衆愚政治と、思惟的な運用で、独裁が世界中に頻繁に現れて、貧富の差を拡大して、今からみれば戦争が絶え間なく続き虐殺も頻発したのであるが、その時でも、高潔な君主は多数いたし、それに代わるべき指導者も多数いたのだが、その者たちが、権力を握ることもなかったし、注目されることもなかった。今考えれば、地球は寒冷化していたにもかかわらず、温暖化対策を実施していて、反対意見はいつも封殺されて、自然は破壊され、絶滅種は膨大なものだった~~♪

    等と評価されていているかも知れない。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      随分返信が遅れてしまいましたが、今から追いかける事にします。

      民主主義は実はとても古典的な形態で、殆ど本能とも近いかも知れませんが、その理論を組み立てると複雑な事になります。
      現代社会は理論ばかりで、人間を見ていない。
      この事が民主主義を悲しくする要因ではないか、と思うのです

      コメント、有り難うございました。

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