「民主主義」・2

フランス革命でもその後起こったことは、市民に名を借りた恐怖政治であり、これはその敵視するものが反革命か魔女の差こそあれ、本質的には中世の暗黒時代と何等変わるものではない。
一般大衆はこうしたことから、個人の事情の集積が国家を動かすことのまずさに気づいていないまでも、どこかで肌に感じるものを持っていたに違いない。
また長く伝統として持っていた、不平等の象徴である立憲君主、その中にも自身の安心感があることをどこかで感じていたのだろう。
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民主主義はその制度ゆえに、いつでも衆愚政治に落ちる可能性を内在していて、世界最初のそれは、世界で最初に民主主義が謳われたアテネで起こり、チャーチルはこうも言っている。
「民主主義は最低の政治だ、ただし人類がこれまで試みたあらゆる政治のやり方を除けばだが・・・」
さすがチャーチル、面白いことを言うが、民主主義は最低だが、それでもこれが他のやり方よりはマシだと言っているのである。
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民衆の要求とは常に個人を中心とした範囲から始まるものであり、ここから始まったものはいかに端末で正義や世界平和、公正を唱えようとも、それは個人の都合から大きく乖離して出てくるものではない。
またこうした個人の正義や公正は、何処まで行っても個人の好悪の感情の外へ出ることはなく、こうした感情に従えば、お友達親戚縁者を回りに囲んだ仲良し政治になり、またこれを極端に避ければ、身内や友人であるが故に優秀な人材を避けねばならぬことになる。
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そして民主主義の原則であるこうした国民の感情を、代理人が重視しすぎるとどうなるかと言えば、理想は素晴らしいが具体的判断ができない政治家を生むのであり、その結果人格や人柄は素晴らしいが、国の政治は停滞させる政治家を発生させるのであり、こうした意味では日本の政治は既に衆愚政治と呼べる段階に入っている。
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ただこうして民主主義を求めながら、その現実段階で半直接民主主義を採用して行った国際社会だが、この体制はどうしても民主主義とは相容れない要素として、民衆と代理人、つまり政治家との対立が起こることであり、民衆が代理人となったその瞬間から、民衆と同じ考え方に立てない状況が生まれ、ここに民衆対政治家と言う図式が常に発生して、ここでは神官から立憲君主、そして政治家と言う具合に、権力を行使できるものが変化してきただけの構造も見えてくる。
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それ故、今の国際社会は民主主義を擁護する立場から、万一政治家や政府と民衆が対立した場合は、原則としてその権威者である国民の立場を支持する風潮となっているが、現実はどうかと言えば、これは厳しい。
民主主義は結局のところ大国の恣意的判断によってそれが決定され、その結果がイラク戦争であり、アフガニスタン介入である。
これは民主主義の擁護でもなければ、その安定でも何でもない、ただの侵略であり、帝国主義と言うもの、また衆愚政治が他国に被害を及ぼした顕著な例と言える。
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であるからして、ここでもう一度日本のような君主を容認した形で残した国家の在り様を見てみると、民衆と政治家、その第三者としての象徴的な君主のありようは、なにやら法典か「種」のような部分があることが分かってくる。
現在もし政治家と民衆が激しく対立した場合、またはこれによって国内が混乱の極みになったとき、更には激しい災害で日本が壊滅的打撃を受けた場合はどうか。
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民衆は誰を頼りにするだろうか。
おそらく何の力もなければ、権威もない天皇家をまた頼りにするのではないか、そしてそこから力や希望を得て、また民衆は国家の再建を進めるのではないか、そう思うのである。
こうしたことを考えたとき、民主主義と言うもの、それがいかにも現代社会では現実性のあるもののように語られようとも、そこに実現可能なものは矛盾でしかなく、反対にどうにも言葉で説明のつかない君主制が、国家存亡の危機には力を発揮するように思えてならない。
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また欧米の判断では民主主義ではないイスラム諸国、確かに未だにその権威は神にあって、権力者はその権威に認められた者とされているが、例えば村の単位ではどうか、ここで家々のそれぞれから代表者が集まって物事を決める仕組みは、多少の制約はあっても一番民主主義に近い形と言え、その集積に国家があるとしたら、欧米の民主主義よりは遥かに民主主義に近い仕組みであり、この場合欧米諸国や日本との違いは権威者が「神」であるか民衆であるかの差でしかなく、双方ともその権威には形がない。
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民主主義の対極にあるもの、それは立憲君主制と思われた、だが事実はそうではないかも知れない。
もしかしたら民主主義が崩壊し、瓦礫の山となった時、それを再び作るための種は君主制にあるかも知れない。
いかに法で定めようと、国連で規定しようと、民衆がそれを頼るなら、そこには立憲と言う権力はなくても、形のない権威は存在し、永遠に辿り付く事のない民主主義を求める、その動機になっていくのではないだろうか。
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世界各国でその権力は制限されらながらも、民衆によって残された君主制、彼ら国民がそうした判断をした背景には、説明の付けられない歴史上の感覚が作用していたに違いない、そうしたことを思うのである。
また民主主義と対立する独裁政治、この2つの有り様は本来同じものだ。
「紫」と言う色は「青」と「赤」の2つの色で出来ているが、青が民主主義なら、赤が独裁政治、そして人類は「紫」と言う色になったものから、それぞれ青と赤を取り出せない・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「権力の散逸と儀礼」1~3

    サン族は典型的な狩猟採集民族であるが、権力者が出ない様な社会文化様式を2万年とも言われる長期にわたって守り、文明に圧迫された人々を除いては未だに、そんな中で暮らしているようだ。権力は安定した社会をぶち壊すことを肌で感じていたのだろう。
    一方先進ヨーロッパ社会では、高度な権力政体を作り出して、より弱い内部で有ったり、外部で有ったりして居るが、弱い権力を凌駕して今は世界に君臨して、勝手に成敗しているだけの様だ。それは早晩、より強い権力の前に崩壊させられるだろうけれど、主は変われど、制度は変わらずであろうと思える。

    今本邦では、丸山某と言う代議士の発言が、各方面に軋轢を生ぜしめているが、これも或る意味言論の自由の範囲内で有って、人種差別とか、障碍者差別とは違うものであるから、自由にさせて、正式に議会で否決すれば良い、今は人格攻撃をしていて、分を超えていることに気付いて居ない危険状態にも思える。

    正義面した連中が自己保身のために、目に見えない大事なものかも知れない芽を勝手に摘んではならない。相撲取りが褌を穿いて、勝負すれば良いだけなのに、突然衣を着て行司に成り替わるというのは宜しくない。

    カダフィーもサダムもアメリカの都合で、非業の死を遂げたが、数百年後に、イスラム教徒がかつての栄光に返り咲いたら、アメリカの大統領も、ヨーロッパの指導者もきっと同じ運命を遂げ、その時に臍を噛んでももう遅い。

    柔道も相撲も今は全然、面白くないが、それでも相撲は優勢などと言う、つまらん規則を作っていないだけマシだが。剣道はそれに比べたら面白い。礼に始まり礼に終わる、と言うだけではなく、残心と言うものがあり、生きている。6段までは強ければ成れるが、7段以上は、口では言い難い、風格~品格まで求められている。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      欧米の民主主義は権利と表裏一体になっています。
      これは運命か偶然かを運命論に引き寄せたものの考え方で、最後は理論に溺れ、衆愚か暗黒政治と言う事になります。
      民主主義をかざせばなんでも通ると思っている人も多いようですが、こうした人たちの考え方は民主主義とは言わない。
      むしろ逆のものだと言う事になると思います。

      コメント、有り難うございました。

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