「オルレアンの聖少女・Ⅰ」

 絶対的な確信と、限りなく不安定な心はその者に同じものを見させる・・・。
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人間は自分の目を信じてはならない、またその耳を信じてはならない。
なぜなら今見ている景色はもしかしたら真実の景色ではないかも知れない、もしかしたら自分が見たいと思っている景色を見ているだけのことであり、そこに真実や事実はないかも知れない。
今聞いている声、それは確かに相手のものか、否、それは自分が聞きたいと思っている言葉ではないか、そうでは無いと言う保証はどこにある。
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「ジャンヌ、ジャンヌよ、わが愛しき娘よ、そなたは私の名をかたり、そして人々に血を流す罪を犯させ、また自身はそれを恐れ、私の怒りから逃げようとした」
「今、ここにそなたがこの運命にあるのは、そなたが自ら招いた罪によるものだ」
「しかしジャンヌ恐れるな、そなたは我が腕に抱かれるだろう」
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「ああ、神様、神様・・・」
ジャンヌは積み上げられた薪に火が付けられ、そして大きな炎となった中で、か細い声で幾度も神の名を呼び、泣き続ける。
が、ジャンヌはやがて天を仰いだかと思うと「全て委ねます」とつぶやき、その目は焦点を失い、遥か遠くを見つめ、そして全く表情を失ってしまった。
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司祭ジャン・ル・メイトスは思わず、手を合わせひざまずき、深く神に祈り始めた。
「しまった、やはりジャンヌは神の使いだったのだ、私は神の使いを殺してしまったのか、いや、私はそもそも彼女の裁判には反対だった。だから代理を立て、私は裁判には加わらなかった。私は悪くない、私は神を裏切ってなどいない、神よ、神よ・・・」
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オルレアンの英雄ジャンヌ・ダルクは、こうして火刑に処せられたが、ジャンヌが下から焚かれた火に意識を失い、煙を吸い込んで呼吸も止まった頃には、着ていた衣服は大方が燃え尽きて、そこにはジャンヌの裸体が杭に縛り付けられた状態となっていた。
そしてこうした状態でジャンヌの火刑は、一旦火が止められ、みなの前にジャンヌの裸体は両足を広げた状態で晒しものにされたが、その目的は彼女の性器を晒し、それがただの女のものであることを大衆に示すためであり、当時悪魔は両性具有とされていたことから、神でもなければ悪魔でもない、ただのつまらぬ人間であることを大衆に示す為、このように異端者の火刑では衣服が燃え落ちた段階で一度火を止め、皆にその体をさらすことになっていたのである。
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神や神の使いを名乗った者を処刑するときは、そこに一切の恐れがあってもならない。
僅かでも処刑者を恐れるなら、そこから処刑に携わった者、また処刑を決めたものたちは、以後の一生を全て神の罰を恐れながら生きなければならなくなる。
だから処刑されるジャンヌはただの女、それも悪魔と交わった淫売女としての辱めを受けなければ、ジャンヌ以外の者達が異端、悪魔との契約者になってしまうのである。
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こうして一通りみなの前に晒されたジャンヌ、これから後は更に薪が積みなおされ、火力を強めて彼女の体は焼き尽くされた。
ジャンヌの体は記録によると、4時間20分かかって燃やされ灰になったが、その後更にこの灰までもセーヌ川に流す徹底振り、文字通り人の処刑としては最高刑に処せられたのである。
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中世ヨーロッパのキリスト教、ここでは火刑が最高刑だったが、そこには宗教的教義から来る考え方が存在し、即ち「審判の日」に措いて神と契約を交わした者は復活が約束されるが、そこに「魂」なる思想が認められていなかったため、人々は復活に際して体の存在を重要視し、それ故体を燃やされて灰になっては復活できないと考え、死後の埋葬は「土葬」を望んだ経緯があった。
こうしたことから人々は火刑を最も恐れ、その恐れを宗教指導者達は利用して、神に名を借りた自身等の権威高揚として利用したのである。
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その結果どんなことが発生してくるかと言えば、火葬されない死体からは疫病が発生し、そうした疫病がネズミを介して人々に感染する現象が起こってくる。
中世にはこうして大流行した疫病の感染、実はその原因が「復活の日」を夢見る、キリスト教の教義に対する人々の解釈によってもたらされていたのであり、ここから疫病を視覚的に具現化したものが、「ドラゴン」であり、精神的危機感、恐怖の感触から「吸血鬼」と言うものが想像されたのである。
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おかしなものだが、中世の魔女裁判や異端裁判、その他暗い見せしめ処刑の流行は、その背景にこうした疫病の流行が、悪魔によってなされているとされたからだが、その悪魔を生む土壌はキリスト教の教義にあって、そこから悪魔が連鎖的に生まれてきていたのだった。
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1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクはこうしてルーアンのヴィエ・マルシェ広場でその19年の生涯を終える。
異端者の辱めを受け、壮絶な死を以って世に晒されたジャンヌ、彼女の名誉が宗教上復活したのは、実のこの処刑から500年近く経った1909年4月18日のことであり、法王ピウス10世によって「列福」されたジャンヌは、1920年5月16日、今度はベネディクト15世によって「列聖」された。
即ちここで初めて彼女はキリスト教における「聖女」とされたのである。
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またジャンヌ・ダルクを世に知らしめたことで言えば、ナポレオンがある。
彼は自身の皇位が正当なものであることを大衆に示し、フランス国内のナショナリズムを煽って、戦争を進める為にジャンヌ・ダルクの名前を使った。
このことからそれまで知名度が低かったジャンヌ・ダルクの名前はフランス国内に留まらず、プロテスタントの聖人として世界中に知れ渡っていった背景がある。
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                                           「オルレアンの聖少女・Ⅱ」に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「オルレアンの聖少女」I~V

     「不純な動機」で、仏~英会話学校に、入って、その言語をそれなりに習得する者は多いが、心の内面まで忖度しても、こういう場合は、結果が合目的であり、宜しかろうと思う(笑い)。

    白人キリスト教徒の社会でも日本の仏教~神道信奉者の社会でも、勿論どんな社会でも、過去の人々を再評価すると言う事は発生する。それは真価を認めると言う事も有れば、自己の若しくは自国~その後継の社会の弁解~贖罪でも有ったりして、簡単には評価できないが、唯一絶対神は、その場の情熱で間違いが多く、その誤謬を正すという事が多いらしく、又時間が掛かる。また、純真に懺悔はしないようで、いい加減な物かもっ知れない。
    本邦でも同様な再評価は起きるが、どちらかと言えば、中道を再想起して、当人の純粋な名誉回復と、後の人々のその人に対する感謝の気持ちの表れが多い様に感じている。
    一神教は全ての源泉を「神」に求めるが、仏教とは「関係性」に求めるので、考え方も対応も違って当然であるし、その違いを相互に認識したらいい。
    これらとは違って、支那帝国は、何時の時代もほぼ世界最大の帝国の1つだが、その命脈は300年であり、その皇帝は、思惟的に偉人を腐したり持ち上げたり、墓所を暴いて遺体を鞭打ったかと思えば、白猫や黒猫を、顕彰したりする。

    先ほど、日本の古きキリスト教遺物が「世界遺産」に認定されたが、評価基準が奈辺にあるかは不明だが、島原の騒乱は、一神教的見地から聖人が出て列せられる事は無かろうかと思うが、日本人のキリスト教徒は理解できないかも知れない。

    無神論者と無宗教者を混同して使っている事が多い様に思えるが、宗教~信仰~実践などをその本義に従って理解しているものは少なかろうと思われる、新興宗教の信者の大部分は、死んでいる石を拝んでいるか、教祖を拝んでいるかが多いだろうが、その心を実践しているものは・・旧来宗教でも、実は同じ気がしているが、少なそうなのも、それを助長しているかも知れない。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      ジャンヌは愚かだったかも知れない。
      しかし人間が出来る迷いの最高峰までやったことは凄いと言いようが無い。
      そして彼女を利用する者達とが組み合わさって、偶然が重なっていった。
      有る意味「神の采配」だったと言えるでしょう。
      そして心の闇は攻める側にも存在し、その後を苦しむ事になる。
      日本で言うなら菅原公に対する藤原氏も同じかも知れなかったですね

      コメント、有り難うございました。

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