「オルレアンの聖少女・Ⅲ」

その後シャルル7世はジャンヌと2人だけで話をすることになるが、ここでジャンヌが語ったことは、ジャンヌ自身が後の裁判でも一切語っていないので不明だ。
だがしかし、ここで1つの可能性として見えてくるのは、ジャンヌとシャルル7世の関係であり、幾ら啓示があったとは言え、ただの田舎娘をそう簡単にシャルル7世は信じられただろうか。
むしろここには現実的なことが語られたように私は思う。
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つまりシャルル7世の母、イザボードだが、実は彼女には愛人がいて、国王シャルル6世の弟オルレアン・ルイとの子供が発覚している。
その名をフィリップと言うが、1407年11月10日に死亡していて、それだけではなく同じ年の11月23日にはオルレアン公も暗殺されているのである。
このことから、もしかしたらジャンヌはこの時死んだとされるフィリップと言う子供であり、その命を惜しんだ母親イザボードによって、男の子が死んだことにして、実は女の子のジャンヌを、ジャックとロメ夫婦に預けたのではないか、そして森の声とはこうした事実を告げた者ではないか・・・、と言うことである。
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ジャンヌはシャルル7世の異父妹であり、このことをジャンヌはシャルル7世に告げ、そしてこうしたことを神の啓示によって知ったとしたのではないか・・・、と思うのだが、どうだろうか・・・。
またシャルル7世にしても母親の男癖の悪さから、もしかしたら自分は国王の子供ではないかもし知れないと言う不安に常にさいなまれてきた。
シャルル7世はこの時、ついに自分が心を許せる身内に会えたと思った可能性もあるのではないだろうか。
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ともあれ、こうしてシャルル7世と面会したジャンヌは、シャルル7世の絶大な信頼を得ることになり、オルエレアン奪回に乗り出すことになって行く。
1429年4月、「ラ・ピュセル」と呼ばれるようになったジャンヌはオルレアン総指揮官であり、オルレアン公の私生児だったジャン、後のデュノワ伯爵だが、彼と、これも後にもう一度出てくるがアランソン公、そしてオルレアンの隊長だったジル・ド・レイ達と共にオルレアンに向かったが、ちなみに「ラ・ピュセル」とは乙女、少女、処女などのほかに、女の召使の意味がある。
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オルレアンはこの時期イングランド軍に囲まれた状態にあったが、ここを馬に乗ってうら若い騎士姿のジャンヌが駆け抜けるのである。
しかも彼女は神からオルレアンを開放せよとの啓示を受けている。
戦争や殺戮に措いては常にその最前戦では迷いが生じる、そして自らも死にさらされる状態で、この現実を肯定することはなかなか難しいものだ。
だからそこには名誉や金銭による褒賞があっても大きな不安が付きまとう。
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しかしどうだ、これがもし神によって肯定されているとしたら、そこに不安はなくなり、その印として常にジャンヌと言う乙女が先頭に立っているのである。
彼女がこうして戦場にいる理由は何だ、静かに暮らし、恋をして平凡な人生でも構わないはずだ、いや女なら誰しもがそうだ。
しかし彼女はこうして戦場で馬にまたがり、走っている。
またあの大勢の男達の中から一歩も迷うことなくシャルル7世を見つけた。
ジャンヌを疑う理由はもう何もなかった。
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私は祖国フランスのためでもなければ、シャルル7世のためでもない、ジャンヌ・ダルクと言う少女、彼女のために戦おう、そして彼女と一緒に、この先に何があるのかを見てみたい。
ジャンヌに付き従ったジャン、アランソン、その他多くの戦士達はきっとそう思ったに違いない。
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そしてこれを迎え撃つ者は神との戦いになる。
もはやジャンヌのことを知らぬ者はなく、彼らは言いようのない不安にさいなまれる。
自分は誰と戦っているのか、神に勝てるのか、これは間違っていないのか・・・、そう思いながらの戦いは初めから勝ち目の無いものでしかない、オルレアンはジャンヌたちの激しい攻勢についに陥落、ここにフランスは7ヶ月ぶりにオルレアン開放に成功する。
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ジャンヌはこの戦いで肩に矢を受け落馬し負傷するが、慌てて駆け寄るジャンの前にいた者は限りなくか細い少女で、しかも彼女は泣いていたが、立ち上がってまた馬を駆るジャンヌの姿は、さながら勝利の女神が天を駆る姿に見えたものだった。
ジャンヌはこの後、シャルル7世に対してランスで戴冠式を行いフランスの正当な王になることを進言するが、ランスまでの道のりは未だ敵地のようなもの、そうしたところへの進軍は危険だと言うことから、ジャンヌのこの意見は当初反対も多かった。
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しかしジャン(デュノワ伯爵)やアランソンもジャンヌを支持するに至って、この意見は取り入れられ、ジャンヌたちは今度はランスに向けて進軍を始める。
はじめから苦戦を覚悟のこの進軍、しかしジャンヌが先頭に立っていることから、皆どこかで神と戦うにも似た恐れを抱き始めたのか、ジャンヌたちの戦争は行く先々で勝利を収め、また予期せぬ支援もあって、ジャンヌは短期間でフランス王朝父祖の土地である、ランスまでの道のりを短期間で確保するに至るのである。
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1429年7月17日、こうしてシャルル7世はノートルダム大聖堂で戴冠式を行い、ここに正当なフランス国王となった。
またこれをもってジャンヌが受けた神の啓示も完成した。
しかし神とは恐ろしい者である、こうした華々しい成果のそのドレスの下では、早くもジャンヌ破滅への道が広がっていた。
その不幸はシャルル7世の近くにいた母が義母だったと言うことだ。
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                                             「オルレアンの聖少女・Ⅳ」に続く。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。