「オルレアンの聖少女・Ⅳ」

この義母ヨランド・ダラゴンはシャルル7世の実母ではなく、そうした意味ではシャルル7世が王にならなければ、自身の価値は全くない状態であった。
だから彼女はシャルル7世が王になってくれれば、それが最終目的だったのである。
それ故、シャルル7世が戴冠式を終えて尚、首都パリを奪回しなければフランスの勝利にはならないと進言するジャンヌやアランソン達と、これ以上の戦闘は望まないこのヨランド達の間には対立が起こってくる。
即ちここらでイングランドと手を打って、妥当な線で落ち着こうとするヨランド派は、次第にジャンヌたちのことが邪魔になってきたのである。
.
このためジャンヌは、宮廷ではやはり義母とは言っても、母であるヨランドに逆らえないシャルル7世とも距離ができてしまい、しまいには孤立した状態となって行く。
また下手をすればシャルル7世よりもカリスマ性があるジャンヌに対して、ヨランドは明確にそれを亡き者にしようと言う意思が働くようになって行った。
ジャンヌがもしシャルル7世の異父妹なら、そして母が宮廷にいたなら起こらなかった不幸だったかも知れない。
.
いたたまれなくなったジャンヌとアランソン達はまた出撃するが、これに対してフランス王朝側は何の援軍も送らず、ジャンヌたちは孤軍奮闘するも、こうした経緯から正確には王朝の寝返りにあって、1430年5月23日、コンビエーニュの戦いで、ついにジャンヌはイングランドと共闘していたブルゴーニュ軍に囚われの身となってしまう。
その後この事実を知ったイングランド軍は、ジャンヌを1万リーブルの金を出して買い、その身柄は1430年12月24日、ルーアンのブーヴルイユ城へと移送され、ここでジャンヌは監禁される。
.
そしてジャンヌは異端裁判を受けることになるが、当初からジャンヌが生きていては安心して眠れぬイングランドの姿勢は極刑しか考えられず、ジャンヌの言葉は完全に無視されて行く。
1431年2月21日から始まった異端裁判では、こうした経緯から裁判そのものに疑問を持つ裁判長のジャン・ル・メイトスは事実上裁判長の役割を放棄し、変わりにイングランドよりのピエール・コーション司教が代理裁判長を勤め、彼らのほかにも50名を超えるものが裁判に参加していたが、この裁判にはことごとくイングランドが介入し、しかしこうしたイングランドのあり様を問題視する意見は全くなかった。
.
ジャンヌは森の中で聞いたのはミカエル、カトリーヌ、そしてマルグリットだと申告したが、最終的にジャンヌが聞いた声は森の妖精に過ぎず、それは異端だとされ、また女でありながら男装していたことも異端とされた。
更には悪魔との交わりがあったのではないかと言うことで、ジャンヌが処女であるかどうかも確かめられたが、この時代、悪魔と交わっているものは処女では無くなるとする考え方から、こうした審判も行われたが、ジャンヌは処女に間違いなかった。
.
1431年5月24日、ジャンヌに対する判決はサン・トゥアン修道院仮設法廷で言い渡された。
その罪状は異端信奉者、そして刑は火刑であった。
だがこうした罪を認め改宗するならその罪は減じて永久捕囚するとなっていた。
裁判で罪を減じる条件を読み上げる最中、ジャンヌは悔悛することを認め、悔悛文書に署名する。
.
しかし、ここで読み上げられた条文と実際のラテン語の条文には大きな開きがあり、実際ジャンヌがその書面を最後まで読み通せば、そこに書かれていることにはおそらく納得できず、彼女は火刑を選んだに違いない。
この辺のあり様を見ていると、自身の罪の意識に苦しむジャン・ル・メイトスの影がちらついているように思える。
.
結局この時点、5月24日の段階ではジャンヌは火刑を免れ、一生牢獄かも知れないが、少なくとも火あぶりにされて晒し者になるまでには及んでいなかった。
そして事件は5月28日に起こる。
この日悔悛して男装から女装に戻っていたはずのジャンヌが、また男装していることが発覚したのである。
もはや万事窮すである。
悔悛するとして署名し、それを破ればどうなるか、そんなことはジャンヌにも分かっていた。
.
だがこの背景はやはりイングランドの意向が働いているように私は思う。
後世の解釈では、宗教施設ではなくイングランドの監獄に入れられたジャンヌは、そこで看守達から性的暴行を受けそうになったことから男装したとあるが、こうした事実、つまり宗教施設で収監されずにイングランドの監獄に収監された時点で、イングランドはジャンヌを殺すつもりである。
.
ジャンヌはその身を神に捧げることを誓っていた、だから看守達に暴行されても死を選ぶだろうし、場合によってはイングランドの謀略で男装させられた可能性もある。
つまりフランスにとっての神の使いが、生きていてもらっては困るのである。
できるだけ汚された状態で、あらん限りの辱めを受けて死んでいってもらうしか、イングランドの立場は守れない訳である。
.
そして5月30日朝、再度裁判を受けたジャンヌは即刻火刑に処せられることになり、冒頭の場面に続くのである。
この裁判のことを聞いたジャン、デュノワ伯爵は膝を落とし、肩を揺らして泣いていたと言われ、アランソンはこのジャンヌの処刑から気がおかしくなり、奇行が目立つようになった。
そしてジル・ド・レイ、もともと同性愛の傾向があった彼は、ジャンヌが処刑されて以降完全に狂ってしまう。
少年1000人以上を虐殺してしまうなどのことがあり、後世もう一つのドラキュラ伯爵の伝説の流れは、このジル・ド・レイがモデルになっていると言われている。
.
1449年イングランド軍を打ち破ったシャルル7世、ルーアンに入って真っ先にやったことは、ジャンヌの裁判のやり直しだった。
その結果1456年7月7日、改めてジャンヌの無実が証明され、火刑裁判処刑の破棄がジャンヌが処刑されたルーアンの地で宣言されたのである。
シャルル7世はジャンヌの兄だったかどうかは分からない、だがしかし、少なくともシャルル7世はジャンヌのことが好きだったし、おそらく尊敬もし感謝してもいたことがここからうかがい知れる。
.
こうしてジャンヌ・ダルクは僅か3年の間で後世の歴史に名を残す英雄となった。
旗をひらめかせ、自分の前を疾走して行く男装の乙女、戦場で彼女の姿を見たものは涙を流して感動した。
もう誰にも負けないと思った、死んでも恐くなかった、彼女の後ろには常に勝利と独立、そして自由が煌いていたのである。
.
                      「オルレアンの聖少女・Ⅴ」に続く。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。