「サマルカンド・紙の道」

中国において紙が初めて作られたのは後漢時代(105年)、宦官の祭倫(さいりん)が作ったとされているが、その紙がヨーロッパに伝わったのはそれから600年後の事だった。

751年、中央アジア(西トルキスタン)のタラス川の戦いで、唐の軍隊がイスラム文化圏の大帝国であるサラセン帝国(アッバース朝)の軍に大敗した時、捕虜となってサマルカンドへ連れていかれた唐軍兵士の中に紙すき職工がいた。
アッバース朝ではサマルカンドに製紙工場を設けて紙を作らせ、やがてバクダードを始めイスラム世界の各地に製紙工場が建設されたが、このことはタラス川の戦いの時の捕虜の1人の記録(杜環・とかん)の「経行記」と、アッバース朝側双方の記録に残っている。

製紙法は12世紀頃スペインに伝わり、次いでヨーロッパ諸国へ輸入され、それまで使われていた羊皮紙を駆逐してしまい、この紙の使用によって始めて印刷技術が起ってくるのである。

一般に日本における印象で、文化や文明の高度な部分と言えば西欧にその姿を求めるところだが、8世紀から13世紀に中央アジアを支配したサラセン帝国の文化は世界最高水準のものであり、宗教的対立をしていたヨーロッパ諸国の文化、その技術はサラセン人をして「驚く程遅れた」ものだった。

またサラセン帝国の商人は広く東西へ渡って交易をし、それをして各地の文化を仲継する役割もしていたが、このことはヨーロッパに大きな影響を与え、ルネサンスを促進したと言う背景も持っている。
当時イタリア、サラセン両方の商人がともに東西に広がって活躍しているが、イスラム文化圏のこうした商業的センスについては、こちらも高い評価を与えるにふさわしいものだった。

学問の分野でもギリシャ哲学、インド・イランの影響を受けた数学、化学、天文物理、医学などが発達し、アラビアの学問はこうした諸外国の影響を受けて発展していたが、エジプトのカイロにある世界最古の大学、アズハル大学(927年)を始め多くの学院が作られ、セルジューク時代にはニザーム・アル・ムルクによってニザーミア学院(1065年)がバクダードに作られ、これらの大学にはヨーロッパから留学する者も多かった。
従ってこの頃のヨーロッパ古典学問は、こうしたイスラム文化圏からの逆輸入の形で、ヨーロッパへ伝播していったのである。

ちなみに日本へ紙の技術が伝えられたのは610年、バクダードは794年、エジプトへは900年、スペイン1180年、フランス1320年、イギリスには1494年に伝えられたとされているが、ドイツのグーデンベルクが印刷機を発明したのは15世紀のことになる。
これによると中国で開発された紙の技術が最も早く伝播されたのは日本と言うことになる・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. ヨーロッパは眠れる中世、そして戦争ですが、その時、アラビア世界は、ギリシャ・ローマの後継者で芸術・科学など最先端行っていたし、その首都バクダードは後年、アメリカに止めを刺された。

    紙は人類の偉大な発明の一つですね、日本は木簡から一挙に紙に移行、奈良京都の古い寺社は火災が有れば、真っ先に図書館の本を持ち出して逃げた。保存もよく、論語や仏典その他の写本も、中国より古いのが結構の残っているらしいです。
    若い時に、それなりに余裕が有って、頭脳が有って、そんな研究の道だったら、今よりマシな気分だったかも知れません(笑い)

    サマルカンドは、1回行ったことがありますが、シルクロードの街、って感じで良かったですよ、食べ物美味しかったし、タシケントから陸路行ったのですが、途中カザフスタンを通るのですが、両国とも知らんぷりで国境は有りませんでした(笑い)

    アラビア人国家の国旗は汎アラブ色で、赤、黒、緑、白が基調で、国の事情で若干差異が有りますが、半分以上で、預言者ムハンマドの黒がつかわれているようです。

    日章旗は、単純明快、これは世界一でしょう、開闢以来使っているようだし(笑い)

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      結果として十字軍の遠征でキリスト教同盟軍は一度も実質的勝利を得る事がなく終わり、Wブッシュがバクダードを攻略して一応の決着を付けた形になりましたが、それも記者会見の席で靴を投げられた事を思い出すに、或いは今日の中東の混乱を見るに付け、どこかで十字軍遠征のドタバタの再来に見えてしまうのは私だけでしょうか。
      タシケントからカザフ領内を通ってサマルカンドへ・・・、良い時に行かれたのですね。
      私の時はまだソビエトと言う国家がまがりなりにも成立している時期でした。荷物検査なども先にナイフが付いたものでグサッ、グサッと言う感じの、すごくワイルドな時代でしたが、タシケントと言い、サマルカンドと言い、とても良いところで、しかも私は名前が好きでした。後年スターウォーズを何気なく見ていて、どこかでジョージ・ルーカスは自分と同じような発音上の憧れが有ったのかな、などとスターウォーズに出てくる仮想の地名を観ていて思ったりしたものでした。

      バクダードも、少し離れますがトリポリも本当に綺麗な街でしたね・・・。また初夏の頃にシベリア鉄道で東欧を通過するときには見渡す限りの大地に背丈の低い小さな花が一面に群生していて、それが当時のソビエトや東欧の混乱、中東の混乱と相まって涙が流れた事を思い出します。もしあの光景が失われていたなら、バクダードの今日の荒廃とトリポリの美しい海外道路がゴミだらけになっていたとしたら、我々先進諸国と呼ばれた国家群は随分つまらん事をしてきたものだと思わざるを得ません。そして今日の日本のような暮らしを我々はいつまで続けることができるのでしょうか・・・・。
      東北の地震、今般の九州の地震、今の日本の経済状況と政治を見るに付け、「その日」は間違いなくごく近いところまで来ているような気がしてなりません。平和な海に掲げられる日章旗は青い空によく似合います。
      決してこの旗の下国民一丸となって頑張ろうと、そう言う事にならないよう、そう言う時が来ない事を切に願うものです。

      コメント、有り難うございました。

  2. ん~、何か忘れていたと、思ったのですが・・
    そう言えば、アズハル大学へ行ったことがあります、と言っても、本校じゃなくて、ガザストリップにある分校の方ですが(笑い)、教授連はエジプシャンが、多かったです。
    何カ国語も堪能な方も居て、勿論英語が堪能の方も多かったです。
    今、世界地図の国境線に囚われている方も多いとっは思いますが、ヨーロッパの都合で、引かれた線が多いわけで、民族、宗教、歴史、文明圏などを考えて、その地域を見ないと分からないことが多いでしょうね。
    ちょっとは方言もあるようですが、イラクからモロッコ辺りまで、アラビア語が通じるんですから、凄いもんです。
    日本は、狭い島国で、ほぼ単一民族の単一言語、夢のような環境で何千年も生きてきた何て、意識もしない(笑い)

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      ガザにも赴かれたのですね・・・。
      同大学も多分空爆の被害を受けたかと記憶していますが、イスラエルの攻撃は国際協定も一切無視の独自法ですから、民間施設や学校の攻撃もお構いなしです。しかし一方で地域の中のどこからどこまでが民間人で、どこまでが戦闘員かの区別が付かない事も事実で、小学生を引率している女性教員でも自動小銃を肩にかけていたかと思います。また世界の多くの国家がすでに他民族国家となっている中で、確かに日本人は取り敢えず単一民族を維持し、島国ゆえに明確な国境を意識して暮らしてきました。この感覚では国境が力に拠って常に変動し、祖父母の以前の代から身内を殺され続けてきた民族の心情などは理解しようがない・・・。人権が保障され、生きる権利が有るとまで信じている日本人が口を挟めることではない・・・。
      世界には多くの地図が存在し、国境以外にも言語による地図、民族人種的地図、そして思想的地図、また近年はPCの普及に拠って、その国家に住んでいるからその国家に所属しているとは限らないかも知れません。世界的には国境がどんどん細かくなりながら、現実は右往左往しながら他国も理解する思想的な世界視野を持つ者が増えてきているような気がします。

      コメント、有り難うございました。

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