「日本の成立」

古代の日本人は一人称、自分のことを「わ」と発音し、これは万葉集の時代まで続いているが、一説によると倭国、倭人と言う表記は、古代日本の人々が自分のことを「わ」と発音していたことから、それに「倭」を当てはめたものだとも言われている。
事実現在でも「わたし」「われ」のように、一人称では「わ」の発音が残されているが、一部の地域では、今でも自分のことを「わ」と発音する地域が残っている。
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そして日本に関する最も古い記録は中国の歴史書に残っているが、ここで当時の中国では自国の偉大さを示すために、例えば異民族の記述には敢えて縁起がよくなかったり、または卑しい、小さいことを示す文字を当てはめている。
日本を示す「倭」は当時の中国では背の小さいことを意味している。
ただしこうしたことから考えられるのは、中国が意図的にいつまでも異民族の記述を良くないままにしているのではないかと言う疑いだが、これは少し違う。
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例えば日本の記述でも邪馬台国のことを記録した「魏志倭人伝」では、あくまでも「倭人」としてしか記録されていないが、これは何を意味しているか、つまりこの当時日本民族が統一されていないことを「魏」の国は把握していたのであり、これは魏志倭人伝の次の時代の記録である「晋書」(しんじょ)でも同じ言葉が使われている。
しかしこれが「晋」の次の「宋」の時代になると、倭王「武」の活躍を伝える記述中には「倭国伝」と言う言葉が出てきて、この名の通り、国家を示す表現となっている。
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「宋」の時代を記録する「宋書」が書かれたのは、おおよそ5世紀のことだから、この時代になると、大和朝廷が日本を統一したことを、宋の国は知っていたと言うことになり、その異民族の国状に応じた記録をしているのである。
そしてこうした国家の名称は、基本的に中国との関係が深まるにつれて改善されて行く傾向にあり、高句麗などはその昔、「高句驪」となっていて、「麗」に「馬」が付いているが、それが取り払われて「高句麗」になり、更には「句」は何を意味するかと言えば「狗」(いぬ)の意味であり、これを嫌って最終的には「高麗」(こま)となって行く。
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これは勿論この時代の中国が、相手国の名前を勝手に変えたと言うわけではなく、相手国が国名を直せば、それに応じて記録上も逐次認めていったと言うことだ。
だが中国の記録の面白いところは、異民族が国家としての体裁を持たない間は民族として捉えるが、その民族が国家を名乗れば民族表示を止めて、国家名を記述していく点にある。
日本などは民族名と国家名は同じだが、例えば「韓民族」などは始めは「韓族」、それから「馬韓」(ばかん)、「弁韓」(べんかん)、「辰韓」(しんかん)に分かれて、やがて馬韓が「百済」(くだら)、辰韓が「新羅」(しらぎ)になっていくのである。
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中国の歴史書に日本人が現れるのは紀元前1世紀の末のことだが、中国(漢民族)が日本という島があることを把握したのは前漢時代のことであり、前漢が中国を統一して間もない頃、つまり紀元前202年ごろ、どうやら朝鮮半島の先にも島か陸があるようだ・・・、と言うことを認識している。
だが漢民族は陸続きの朝鮮半島に対する関心は高かったが、その先の海に何があるかと言うことには、余り関心がなかったようである。
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また秦の始皇帝が徐福(じょふく)に命じて不老不死の妙薬を探させる「徐福伝説」、ここで徐福がたどり着いたのは日本ではなかったかと言う伝説が生まれたが、徐福は日本を目指していたのではなく、つまりは不老不死の妙薬があるとされる伝説の「蓬莱山」を目指したのであって、そこに日本の存在などは把握されてはおらず、「伝説の山」でしかないことを考えると、もしかしたら徐福は日本にたどり着いたかも知れないが、この時代に措いては日本は中国に把握されていないのである。
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更には「論衡」と言う書、ここにも日本に関する記述が見られるが、それによると遥か昔、中国に「周」王朝が成立していた頃、周王朝に倭人が「香り草を献上した」と言う伝記がある。
しかしこれは漢時代の人が作り出した伝記である可能性が高い。
なぜならこの前漢の時代には、日本から大量の香り草が中国にもたらされていたからだが、漢民族の偉大さを称えるものとして、遥か東の彼方の国までもが、周の時代から中国に付き従っていた・・・、こうしたことを伝説として残すことに意味があったに違いない。
もし周時代に日本との交易があったなら、そもそも周より遥かに新しい時代に成立した秦王朝の徐福伝説には、蓬莱山以外の記述、つまり日本の記述も残される可能性が高いからである。
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日本のことが記されたもので最も古い記録は「山海経」(せんがいきょう)だと言われていて、これは複雑な経緯でつくられたものだが、倭人の記録については、おそらく前漢時代に書かれたものだろうと言われている。
「蓋国(がい)は燕(えん)の南、倭の北にあって、倭は燕に近い」
この記述から蓋国は朝鮮半島東北部に位置していた国であり、燕は中国の東北にあたるところにあり、即ち、当時の中国人は倭国(日本)が、朝鮮半島の先に存在していることを、地理的に把握していたことを示している。
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前漢の歴史書「漢書」はこう記している。
「倭の多くの国が中国の植民地である朝鮮半島の「楽浪郡」(らくろうぐん)に貢物を持ってくる」
紀元前1世紀、当時の日本はまだ小さな国があちこちで成立していて、統一されておらず、それらの国が何がしかの力を得て日本統一の足がかりにしようと、中国に貢物を献上していた姿がどこかで見えるような、また倭人達は中国の大きさを何となく感じているが、中国は倭の国を、この時点でも文明の遅れた国としてしか認識していないことが、この記述からも読み取ることができる。
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日本人が「日本」と言う国号を使いはじめるのは7世紀末のことであり、この時期にはそれまで「大王」(おおきみ)と呼ばれていた大和朝廷が、天皇の称号を確定する。
そしてそれに伴って中国の歴史書も「倭国伝」から「日本伝」へと変化していくが、唐時代に書かれた「旧唐書」(くとうじょ)には「倭国伝」と共に「日本伝」が出てくる。
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「日本の国は倭国の別称であり、日の近くに存在しているので日本と名乗った、または倭国の民がその名を良いと思わなかったので、日本と言う名前に変えた」
「旧唐書」日本伝にはそう記されている。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「日本の成立」

    我が友人に、若かりし頃にシベリア鉄道経由で、モスクワから南下して、アフリカを逍遥した人がいる。目指した理由は、各種あれど、日本と全く関係なく、存在したところを見てみたい、と言うのが根本の理由の様でした。これからも、会う機会や連絡できるときに、話を伺ってみたいと思っている。

    一頃魏志倭人伝を参照しながら、邪馬台国~大和の所在地論争が盛り上がったことが有ったようですが・・
    ま、議論としては面白いが・・
    旅程の記述から探索は多分方法が違うような違和感を持っていた。それは例えば、ご老人の重大な交通事故を減らすのに、自動車の改良~免許の在り方を論じているようなもので、実は、老人が自分で運転しなくても~運転しないで、まあまあ、それなりの生活を、ハッキリ言えば、死ぬまで出来る方法も一緒に考得て、初めて有効かと。

    若い人に、実は眼中にないけれど、日本より人口の多い、バングラデッシュやナイジェリアは何処にあるか、白地図に国境線だけある地図を示して、示させて、議論するような物~~♪

    日本は7大文明の1つであるかどうかは兎も角、長い間、世界史からは孤立してたが、何かの環境で、営々と集落~村から拡大して国家まで成ったようだが、今はそれらを振り返って、又今後の行く末を見るべき機会が与えられているのかも知れない。
    偉大なローマも、それを産んだらしいギリシャも、そこには当時の人々は住んで居ないことなども勘案して。

  2. 「43年目のキス」

     人は或る一瞬の為に生きる。60年は一瞬の閃き。

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