「視覚と言う死神」

人間が持つ感覚の中で「視覚」が持つ影響力は一番大きい。
だがこの視覚と言う感覚を頼りすぎると、人間はどこかで「現実」を失い、しいては現実社会に「非現実社会」が出現してくることになる。
人間が本当の意味で滅ぶとき、それは戦争による殺戮によってもたらせるものではなく、むしろ平和によってもたらされる。
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安定した平和な社会は人間から本能的な危機感を奪い、それによって本来は生物の生物たる所以である生殖行動がリスクに感じられるようになり、その瞬間から生物や社会は事実上崩壊していく。
更にそうした食べることに困らない豊かな社会が求めるものは「視覚」であり。
実は人間の五感を満足させる中で、一番経費がかかる感覚が「視覚」なのである。
従って平和で豊かな社会ほど、そのコミニケーションが視覚に頼るものになり、視覚は実体験を伴わずに、多くの手間がかかる現実の60%以上、場合によっては現実を超える感覚を脳にもたらしていく。
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それゆえこうした社会の持つ特性は、現実社会と非現実社会が渾然となった社会を生み出すことになり、最終的にはその非現実的な部分に措いて、確実に衰退が訪れるのである。
男女が出会って互いの心を通じ合わせ、なおかつ性交渉を持つのは、実は大変な労力を要し、また子供を育ててそれを一人前にするには、更に大きなエネルギーを必要とする。
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だがこの大変な労力が省かれて、性的交渉による快感だけが享受できるとしたら、人間、特にオスは視覚的な部分へと流れやすくなり、これが今日卑猥なDVDが社会に氾濫し、また大量消費される原因である。
またこうした意味から言えば、一切の人間的交渉努力もなく、簡単に性交渉が可能な「風俗」への依存も同じことである。
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古来よりその国家や社会が壊れるとき、それを引き起こすのは間違いなくオスの遺伝子であり、その最も欠落しやすい部分が実は性的交渉なのであり、同時に起こってくるものは、生殖活動を伴わない感覚的快楽、若しくは恋愛、そして同性愛と言うことになるが、これもまた生物的には本能と言うものなのかも知れない。
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だが視覚による感覚は実態を伴ってはいない、つまりそこには現実には近くても、明確に現実ではない部分が存在するが、それが聴覚であったり、臭覚、触覚、味覚と言うものによって補われて初めて現実となる。
つまり画像で見ている絶世の美女は汗を流してはおらず、その肌の柔らかさなどから感じる「女」の感触と言うものを欠落させている、言わば不完全な感覚であるが、これに感覚が馴らされてくると、実際に汗をかく女が面倒になる、また現実には相互に言葉を交わして、初めて成立する男女の付き合いが面倒になって行くことになる。
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そして豊かな社会に措ける社会保障の充実だが、これにも盲点があり、人間は老後の扶養を長く子孫に依存してきた歴史を持ち、この感覚は子孫を残す意味を人間が考えられる範囲に限定するなら、一定のウェートを占るに至っているが、これが社会制度である程度の保障が得られることが確定していると、子孫を残す意味が薄く考えられていく。
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その結果社会的扶養制度が充実した社会ほど、その社会の人口は減少していく傾向を示すが、社会扶養制度を考えるとき、老後だけではなく、どの年代に措いても社会扶養が充実していなければ、ここに老人が若い世代を食い潰していく社会が生まれ、その社会は益々子孫を残せなくなっていく。
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また視覚は人間の感覚の中で最も影響力が大きいことから、視覚を言語に例えるならそこには断定形態が存在している。
味覚や触覚、嗅覚などが「もしかしたら」や「かも知れない」と言う表現なら、視覚は「である」の要素が強く、この視覚の上に、視覚の次に影響力がある聴覚が加われば、それは「確信」に近いものにまでなっていくが、そこから何が生まれてくるかと言うと、想像力の欠如と、妄想の発達である。
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あらゆる人間の想像は本来自分が関係する社会、家族、場合によっては国家や自然などからも微妙に干渉を受けて、それによって総合的なものが集約されたものであり、これに対して妄想はエゴイズムの増殖的な面を持っていて、両者は同じではない。
端的な例で言うなら、男性が女性の延長線上に描く女性には、女性が身に付けている下着までがこの範囲に入ってきて、そうしたことから下着泥棒なら、まだ「バカモノが」の範囲かも知れないが、これが想像と妄想の限界点であり、これを超えていくとストーカーになり、挙句の果てには殺して死体はバラバラに切って捨てると言うことになるが、こうした行為は妄想の暴走と、その想像性の欠如が根底に潜んでいる。
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視覚的バーチャルな世界では、死がどう言う意味かは分らず、そこにはまた再生されるような非現実的な「死」はあっても、現実に「苦しいだろうな」「辛いだろうな」と言う想像が働かない。
また夜中に一人でノコギリで死体を切っている自分の姿を想像できないからこそ、夜中にノコギリで死体を細かく切って、それを山に捨てることが可能になるのだ。
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視覚的快楽の中にはエゴイズムが存在し、それが増殖されて、個人の中では現実とのギャップが認識できなくなる。
映像の世界の異性は結局のところ、ただの自分の妄想にしか過ぎず、これと現実を混同してしまうと、少しでも自分の思うとおりにならなければ、すぐにこれを排除しようとしていく、また消して次を見ようと言う感覚と同じものが現れて来るが、現実に動き始めたものは後戻りができない。
そこで安易に殺害して、しかも死体はバラバラにして捨てると言った事件が社会に蔓延してくるのであり、こうした点では男女の区別はなくなってきている。
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現実とはその重さを想像できる感覚によって支えられているものであり、現実と想像は対になっていてこそ意味を持つが、そのうち想像と言うものが壊れていくと、そのとき存在した現実もまた崩壊していくものであり、事実今から30年前であれば、死体が切り刻まれて捨てられていたとなれば大事件で、犯人は絶対捕まることになっていて、しかもその殺人には相当な理由が存在しなければならなかったが、現代社会ではこうしたことすら日常茶飯事になり、事件が報道されても大衆はさほど驚かなくなって来てしまっている。
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ここに存在するものは、少なくとも「死」と言うもの、その尊厳に対するリアリティの稀薄さであり、日本人はその生活の豊かさの中で「死」と言う現実をここまで軽くしてしまったのである。
そして「死」と「生」は同一のものである。
1日に100人もの人が自殺していく日本社会の背景には、ただ景気が悪いと言うそれだけの理由だけではない、実態のない視覚社会と言う死神が潜んでいることも、心に留めておかなければならないように思う・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 「視覚と言う死神」

    最近は、『叱らないで育てる』と言う育児法が有るらしい。そんな母親が、保育園に子供を預ける時には、「叱らないでください」と言うらしい。勿論、そんな親の子供はロクデナシだから、言葉遣いも行儀も最低だから、保育園では積極的に教育するから、ぐずって、次の日から親は子供を連れてこなくなるらしい。
    ま、大抵は、お勉強もできない、社会常識も覚えないし忍耐なんかは全く出来ないから、将来が楽しみだ。
    見てくれが良く、知能が高かったら、きっとアナウンサーに成って、参議院議員に成って、世の中を住みにくくするだろう~~♪

    ダライ・ラマ14世:死ぬときは今まで貯えた財産も、愛する人々も、自分の身体も、全てを置いて1人で、旅だって行かねばなりません。これらのものは、何の役にもたちません。では、来世のためになにが役立つのでしょう?それは、今世でなしたよい行いです。人は誰でも、生まれるときと、死ぬときには、人の世話になります。世話にならずにすむ時期はせめて、人のために尽くすべきです、と仰っております~~♪

    勿論自分がしているという事ではありません。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      見たものが絶対だと信じてはいけないし、視覚に頼りすぎると現実を見なくなる。
      今まさにそう言う時代になってしましたが、これはもはや引き返せない。
      何か大きな災害で、一挙に環境が変わらないと治らないと思います

      コメント、有り難うございました。

  2. 「イチゴショートケーキの混乱」

    近所にちょっと近所では有名なお菓子屋さん+カフェがあり、直径5~6㎝のシュークリーム(怪しい言葉だ~笑い)が有る、@¥250、一回だけ食べたことが有る。
    多分全国展開しているコージー○○の大きなシュークリーム、昔は@¥100で今は、@¥130~150位、何回か食べた。
    近所に何店舗も展開しているスーパーのシュークリームは、そこより少し小さいが、@¥65位、偶に食べる。
    多様性が有って大歓迎だけれど、自分は最近は滅多に食べないが、スーパーのを食べる。味に敏感なら色々好みが有るのだろうけれど、自分にはそれで充分で満足している~~♪

    その内、イチゴやキウイ、餡子を入れたり、抹茶味とか出てくるだろうけれど、それはそれで良いが、年に数回食べて、無心で~色んな事を思い出すだけだから、従来型も絶版にしないでほしい~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      スケールフリーネットワーク理論なのですが、今のPC世界の理論でも有り、人間の本能的な部分でも有ります。
      そして席は以外に狭く、難しい理論も実は単純なものが組み合わさっているだけ・・。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「地球はなぜ青い」

    確かに感覚は、鼓腹撃壌で、満腹だと意識は夢うつつで歌の1つも、という事でしょうが、勿論程度によってどこが臨界点か、その人の経験にもよるだろうけれど、余り苦行をしても、辺に寄り実は大した考えは浮かばないらしいし、極限に成ると不安からも遠ざかり、或る意味、救済が人には準備されているようにも思える。

    飢餓地帯~メタボ地域の行動様式を比べれば、粗暴犯は、空腹の方が多そうだし、財産犯は満腹の方が、何となく多い様な気もする、大金持ちが国家から詐欺を働く事案は、貧乏国に多い様な感じではあるが、『モリモト』とは、違う詐欺グループ(?)の支援を受けて、暫く話題の中心だったが、起訴されると、支援者は、何事も無かったかのように振る舞ったのは面白かった。

    宇宙飛行士が高度数百キロから地球を見て、余りの美しさに、特別な感情に打たれるらしい、それでOB~OGはある種の伝道者のような感じで晩年を過ごすことも多い様だ。

    いつか、太陽系のどこかの星の探査から帰還してきて、数十万キロの彼方から地球をつぶさに観察したら、又、別の感慨が浮かぶかもしれないが、それまで人類が地球上に存在すか如何は、心もとない(笑い)

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      実は私は自分が書いた記事の中でこの記事が一番好きかも知れません。
      地球の青さがなぜ、と思った時、それを応えてくれる大人は多くは無い。
      そうした子供たちの為にと思って書いていました。

      コメント、有り難うございました。

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