第1章「フォルテシモ」

確か、午後4時くらいのことだっただろうか、今日も何とか1日を乗り切ったかと思い、自動販売機に100円玉を押し込み、紙コップにコーヒーが注がれるのを待っていた、そのときのことだった。
この工場の暗く長い廊下を2人の小学生くらい子供が歩いてくるのを目に留めた私は、彼らに近づき、「ここは危険だから君達は入ってはいけない、もう遅いから家に帰りなさい」と注意した。
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おそらく小学6年生だろうか、背の少し高い女の子と、彼女より少し身長が低い男の子は、私を見ると一瞬にして緊張したのか、立ち止まると、暫く言葉も無く立ち尽くしていたが、やがて女の子の方が「この会社の社長さんですか」と私に尋ね、「いや、私は社長ではないんだよ」と答えると、今度は男の子の方が、かなり大きな声で「社長さんに会いたいです」と言うのだった。
見れば女の子の手には束になった封筒が握られている。
これで私はピンと来た・・・。
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私は彼らに付いて来るように言うと、「準備室」に通し、彼らの分のジュースを自販機で買ってソファを勧め、それを飲みながら暫く待っているよう言うと、早速上司の所へ走った。
「管理室」では部長が座って書類を眺めながら頭を抱えていたが、そこへ私が小学生が陳情に来たことを伝えると、「済まんが○○、そっちは君がやってくれ」と冷たい返事が返ってくるだけだった。
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「何だこれは・・・、むかしと同じじゃないか・・・」
小学生達が待っている部屋の前で、ドアを開けられずに立ち止まった私は、ふと数年前のことを思い出した。
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私が初めて勤務した会社は地方の小さい会社だったが、それでもデパートとの提携で毎年売り上げを伸ばし、それでついに専属のデパート出向社員として選ばれた私は、1年間、某デパートの上野店に在籍し、そこでの売り上げも急成長と言う状態だった。
だが、こうした中で先代社長から事業を引き継いだ2代目社長は、これだけ売り上げあるのなら、新宿で独自販売店を持った方が儲かるのではないかと考え始め、そこから私にこの販売店開設企画が任されるようになった。
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しかし、私はこの企画には猛反対し、従業員も先代ですら、新社長の企画には難色を示したが、それでも新社長の方針は変わらず、結局皆が折れる形で新宿店の企画はスタートした。
当時私がデパートで売り上げていた金額はおよそ6000万円、これがあれば月額200万円の賃貸料と店員の給料、そして維持費の合計550万円は賄えると言うのがその根拠だったが、この6000万円は確かに私が商談しているが、その背景にはデパートの名前があり、結果として売り上げているのは私ではなく、デパートだと言うことが、社長には理解できていなかったようだ。
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だが、新社長として何がしかの希望を持つことは心情として理解できる、そこまで言うなら協力しましょうと言うことになり、始めたこの新宿店の企画、しかし開店1ヶ月目の売り上げは僅かに70万円しかなく、これを知った社長は、今度は一転して一ヶ月で撤退しようと言い出したのである。
さすがにこれではまずいと思った私は、今度はどんな商売でも初めからうまくいは行かないから我慢して、いろいろ工夫しなければいけないと進言したが、社長の頭の中は既に撤退しか無く、結局新宿店は1ヶ月で閉店となってしまった。
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これによる損失は新商品の開発費用や、仕入れ、そして1年契約だったビルのワンフロアーの賃料と含め、総額4000万円にも及んだのである。
加えて訪れたものは不景気であり、ここで一挙に体力を落とした会社、社長の方針は今度は従業員の整理だった。
まず高齢者、女性、そしてそれだけでは留まらず、ついには小さい子供がいる従業員まで解雇しなければならなくなって行ったが、それらの仕事は先代から新社長を補佐するよう言われていた私が行わなければならなかった。
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小さい町であり、新社長が評判を落とすことを恐れた先代はその役割を私に頼み、わたしは初めから泥かぶりは覚悟で、自分が世話になった従業員の家を回り、泣きながら解雇を伝えたが、それでも解雇された人の不満は限度を超えていたのだろう、私の家には連日無言電話や、誹謗中傷の電話がかかり、最後の1人、この人には生まれたばかりの子供と他に3人も子供がいることを知っていた私は、この時もう覚悟を決めていた。
私は彼を解雇しないように社長に頼み、自分が彼の代わりに会社を辞めることにしたのである。
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会社を抜け出した私は車で海を見に行っていた。
天気の良い日で、波は穏やか、カーコンポで「ハウンド・ドッグ」の「フォルテシモ」を聞いていたら、「あー、何か全てがばかばかしい・・・」そう思えたものだった。
それから暫く何もすることも無く、山へ行ったり海へ行ったりしていた私は、もう全てが嫌になりかかっていた。
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だがそんな私を呼び出したのは、デパートにいた頃のお客さんで、某大手化粧品メーカーの部長だった。
「聞いたよ、大変だったな、でも良かったら家の会社で今空いているところがあるんだが、そこで働いてみないか」
この部長の言葉は私にとっては天子の囁きのように聞こえたものだったが、それでまた東京へ出た私は、今度はこの部長と一緒に関西へ暫く出向することになる。
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                      「第二章・子供たちの手紙」に続く。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 第1章「フォルティシモ」
    第2章「子供たちの手紙」

    典型的アメリカ人で、武人では有るが、敵将を尊敬し部下を重んじる武士道(騎士道)の無いD.マッカーサー元帥は、フィリピンに部下を残して逃亡した。戦後、負けた腹いせに、自分の事は棚上げしたまま、復讐として彼を追い出した本間雅晴中将を銃殺刑にした。

    本間中将の奥様の証言:「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです……。」

    その後、フィリピンを占領していた山下奉文大将を絞首刑にした。
    彼の遺言の一部:「母の愛に代わるものは無いのであります。母は子供の生命を保持することを考へるだけでは十分ではないのであります。子供が大人となった時自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、協調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。………これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。」

    沖縄戦の牛島満大将も硫黄島の栗林忠道大将もその最期は、彼らなりの責任を果たした。

    組織の上に立つものは、一生をうまく立ち回って生きても、それでよいわけではない。特に国家を代表する者は、その立ち居振る舞いが国家の将来に深くかかわっている。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      今から思えば若かったなとも思いますが、全力で生きていた自分を嬉しくも思います。
      今の時代はこれよりもひどいことが多く起こっているでしょうが、その中で全力で生きている人もきっといる。
      そんな人たちに応援を送りたいと思います。

      コメント、有り難うございました。

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