そしてパレスチナでは現在国家としての要件である「政府」(Government)が存在しない状態となっている。
国際法上認められた、つまりアメリカとイスラエルが認める「ファタハ」と言うパレスチナ穏健派組織は、既にパレスチナにおける実効支配を失い、その代わりに台頭してきたのは、2006年1月に行われた、パレスチナ立法評議会選挙で大勝した武装組織「ハマス」であり、こうした点から考えると「ハマス」はパレスチナ民族の代表権を持つ存在なのだが、一方で国際社会は「ハマス」をテロ組織としているため、これを民族意思決定機関(Government)として認める事が出来ない。
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またハマスはイスラエルを国家として承認しておらず、同じくイスラエルに対抗しているレバノンの「ヒズボラ」と共にイスラエルに攻撃を繰り返し、この「ヒズボラ」はレバノンと言う主権国家に存在する武装勢力だが、これがイスラエルに対する武力闘争を継続する事で、支援を得る条約をイランとの間で締結している。
つまりイスラエルはパレスチナ、レバノン、イランを確実に敵としているのであって、こうしたイスラエルをヨーロッパやアメリカが承認しているのであり、国連もまたこの方針に追随する形となっている。
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そしてイスラエルの主張は極めて独善的なものであり、片方の攻撃がロケット砲の攻撃なら、それに対抗する攻撃は空爆であり、あからさまな力の支配をパレスチナで繰り広げている。
こうした中、パレスチナの内部にはPLO(パレスチナ解放機構)を引き継いだファタハと、ハマスの対立、つまり穏健派と武力闘争派との対立も発生し、アメリカなどの国際社会はこの穏健派を従来からパレスチナの代表、いわゆるGovernmentとして認めてきたが、ハマスはGovernmentとしては認めていない経緯を考えると、国際社会はパレスチナの民意で選ばれた組織は認めず、自分達の都合の良い相手をGovernmentしている事は、まことに遺憾な事としか言いようがない。
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その上で、2010年5月31日に発生した、イスラエル軍による、トルコのパレスチナ「ガザ地区」に向けた人道支援派遣船団への襲撃拿捕と乗員の逮捕である。
ガザ地区の人道支援援助は国連で認められたものであり、これを武力で襲撃し、なおかつ人道支援活動に従事するトルコ人19人を射殺、乗員を拘束した行為は明らかに国連憲章並びに国際法の違反である。
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国連はすぐにこの事件に対する国連調査団の派遣をイスラエルに要請したが、イスラエルはこの要請を拒否し、その後もパレスチナ人道支援船の拿捕を辞めようとはせず、これに対して国連は口を閉ざしてしまう。
やがてこの事態に憂慮したアメリカは、流石にまずいと思ったのか、イスラエルとパレスチナの和平交渉を取り持とうとするが、PLO「パレスチナ解放機構」と言う、大きな枠組みの中に存在するハマスとファタハの対立は、所詮民意によって選ばれたハマスの方により多くの支持があり、国際社会の窓口としての力のみで存在してきたファタハは、PLOの代表を名乗りながら、パレスチナの民意を掌握できていない。
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ここに一度は2010年6月に入って、アメリカの調停による、PLOとイスラエルの和平交渉の提案に対して、これを受け入れた後、すぐにまた拒否せざるを得なかったPLOの実情が存在するが、こうした中で起こってくるものが、2010年6月9日、国連のイランに対する「制裁決議」の採択である。
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これはおかしい、イスラエルのパレスチナ支援船の襲撃こそは明確な国際法違反であり、これこそが「制裁決議」に相当する行為であるにも関らず、こちらは議題にすら上らずアメリカによる調停で済まされ、核兵器開発疑惑で調査団受け入れを拒否しているだけのイランが、「制裁決議」を受けるのは明らかに不当であり、この背景には敵対するイランの核兵器開発を何とか阻止し、場合によってはイラン空爆の逃げ道を作ろうと焦る、イスラエルの圧力が歴然としているのである。
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それにこうしたことからすれば、同じ核開発疑惑では北朝鮮もイスラエルも同じような採択がされなければ国連は「正義の基準」の整合性を失うのであり、このような国連の有り様は、そもそも国連自体の存在理由すらも揺るがしかねない大問題だが、国連の場で誰もそうしたことを口にしないこの国際社会とは何か、一体国連憲章の国際秩序の維持とその正義の精神とは何か、国連はこのことを世界に向けて、今一度説明する必要があるだろう。
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正義と言うものはもともと根拠のないものだ。
だからこれは公正と言う、危うい整合性が保たれていて始めて存在できるものであり、これが僅かでも崩れた瞬間から、そこには「力」のみが正義の社会が発生してくる。
国連の今回のあり様、またこれまでのあり様を鑑みるに、そこに正義を唱えながら、各国の都合で正義はまた壊され続け、ここに正義は完全にその整合性を失ったと看做さなければならない。
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またこうしたことを把握しているからこそのイスラエルの態度なのであり、国際社会はイスラエルの主張、これは武力を含めてだが、それを全て認め、それに相対する国の主張は一切認めていないこの現状を、いかに考えているものだろうか。
また力によって正義が歪められるなら、そこから生まれてくるものは「正義の基準」の複数化であり、これがもたらすものは国際社会のブロック化である。
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そしてこうしたブロック化によって起こってくるものは「持たざる国」の連携であり、追い詰められた国同士の集合現象であり、この現象は何れ「持たざる国」から始まる国際社会に対する抵抗、つまり場合によっては「戦争」となるのであり、このことを一番良く知っているのは日本ではないか・・・。
それゆえ、日本は少なくとも過去の歴史的経験からしても、例え虚しいほざきと言われても、国際社会に対して言うべきことがあるのではないか、少なくとも身内でつまらぬ勢力争いを繰り返し、時間を費やすよりは、他国であってもその民衆の命に拘る問題について、これを優先すべきは国家としては勿論、そも人としての道ではないだろうか。
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パレスチナの人道支援に対してイスラエルがそれを阻止したとき、チョコレートや子供のオモチャ、果物までもパレスチナに持ち込んではならないとしたが、その理由は「贅沢品」だからと言うものだった。
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※ 本文は2010年6月、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
「アポカリプス」
旧約にしろ、新約にしろ、「クルアーン」にしろ、そこに住む民族の文化と歴史から、その時の要請によって、作ら出されたのだろ。だからと言って普遍性が無いと言う訳ではないが、異地域~異民族~異時代には、自分としてはどうしても、受け入れがたい要素が、増えて行き、新しい解釈~変更が必須のように思われるが、単に不都合は読み飛ばしているような気がする。
友松圓諦によれば、『釈尊が菩提樹下に納得した所の縁起法と言うものは、決して、釈尊自身が何処からかさがしだしてきたものでもなければ、どこかの人が作り出したものでもない。さとりに到達した如来がこの世に生まれ出ようと、出まいと、「有仏無仏、法性常住」と言うものはこの境地である。釈尊の教法がただ偶然に彼によって思い出されたごときものではなくして、そこには、三世にゆるぎない、必然の意味を持つ所以である。その縁起法とは如何るものであるか。一口で言えば、お互いに何事によらず、1つをほかの一つから切り離して考えれれないという理法である』
日本に来たって、耶蘇教を説いた宣教師が、仏僧に論破されたのは、この辺りが、主理由の一つと思っている。