木と木の接合と言う状況は「椀」や「盃」などの漆器ではその状況が少ない。
椀の球形の部分と高台(脚)の部分を別々に曳き、それを接合して得られる対費用効果は、これを同時に一つの木片から曳いた場合の強度的対費用効果に劣るからだが、「雑穀片口」(雑穀を入れておく口の付いた鉢)や直径30cmを超える大きな皿や盃の場合だと、本体と脚を別々に曳いて接合する時が有る。
それゆえ漆器素地の接合と言う状況は「椀」等の丸いもの以外、もっぱら箱やお盆などの素地形成に措いて多用されるが、丸いものでも丸盆や小判型の弁当箱など、基本的に側面と底板が分離している状態のものは全て角形群として看做す事になり、素地接着には木工用ボンド、シアノン系接着剤、米糊、「こく惣漆」(こくそううるし)等が使われ、この中で一番強力な接着力はシアノン系接着剤である。
だがシアノン系接着剤はタイミングに弱い。
一種の「気」のようなものかも知れないが、例えば昔から伝わる「鎌いたち」のような状態、或いは空手の瓦割りのようなもので、何かと何かが揃った状態には簡単に外れる。
これに対して米糊と木工用ボンドはほぼ同じ強度で、シアノン系接着剤ほどの強度は無いが4年くらいの持続強度と、タイミング破損耐性強度が有り、これは米糊や木工用ボンドがシアノン系接着剤より「柔らかい」事に起因している。
つまり素地収縮に適合する「ゆとり」が有るのだが、硬度の有るシアノン系接着剤には「ゆとり」が無く、その分タイミングで外れてしまうので有る。
また輪島塗の素地接着でもっとも信頼されている「こく惣漆」は、米糊10に対して漆を100%から150%加えて練り合わせ、そこへ「こく惣粉」(欅の粉末を焼成したもの)を1割から4割加えたものだが、この強度は水分がなくなるに連れ劣化する為、通常の強度は5年から10年となる。
更にこの「こく惣漆」にはもう一つ蛋白質反応の漆が有り、この場合は漆と小麦粉を練り合わせたものを指すが、接着漆は乾燥したときの硬度が高く、素地加工に用いると刃物が全て刃こぼれを起こす事になるゆえ、一般的にこの漆が使われるのは割れた陶器補修の「金継ぎ」、上塗り用の刷毛を挿す(作る)時や、塗師小刀などの柄を挿す場合などに使われる。
そしてこれらの事を総合すると、短期間で強力な接着力を得るならシアノン系接着剤が有効であり、4年から10年の中期間、有る程度の強度で持続接着を得るなら木工用ボンドや「こく惣漆」、接着力は比較的弱いが長期に渡って持続接着を得るなら米糊と言う事が出来るだろう。
尤も、素地接着はその接合構造による構造強度に起因するところが一番大きいが、こうした接合構造強度で一番強度の有る構造は「一升枡」(いっしょうます)などの角に用いられている「連続組み方ほぞ」で有り、この場合は接着剤を用いなくても必要強度が始めから得られている場合が有る。
面白いものだが、接着強度が強くなると、タイミングと言う訳の分からないものに弱くなって、その結果接着期間が事実上短くなり、接着力が弱まるに従って持続接着力は長くなり、一升枡などでは接着剤すら必要とせず、いつまでも形を留めるので有る。
強度とは一体何なのだろうか・・・。
人もとても敏感な人は、もしかしたら不断のストレスに弱そうですが、何を言っても分かっているのかどうか分からないほどの茫洋とした方が、大事をなすような気もしますが、ただの馬○だったりするので注意が必要かも知れません(笑い)
昼行灯、夜になっても火が付かず、って事も有るかも。
大西郷は、凄い謀略家であったようですが、会ったことがある人の印象は、そのような印象ではなく、とてもつかみ所が無かったとも聞いています。
翻って、大久保は、熟慮に熟慮を重ねて、雌伏し一端始めたら、断然死力を尽くす、覚悟が違いますから、強かったと聞いております。
2階屋を作るとき、土台から屋根まで通しの柱が多ければ多いほど丈夫と思っていましたが、中学生ぐらいの時でしたか、近所の柱立て(建前)の時に、そのような柱は殆ど無く、途中で大抵継いで居ました、棟梁曰く、この方が揺れにも重さにも強いとい事でした、寺社建築はそれが巧妙になっているようなお話しでした。
自動車も事故の時に適当に破壊された方が、中の人間を守るそうですから、強さは、多分、弱さも糸筋縄では行かないようです(笑い)
ハシビロコウ様、有り難うございます。
こうして強度と言うものを考えるなら、それはやはり出現してくる状況への対処だと言う事になるのかも知れませんね。それゆえ出現してくる現実を素直に見る事ができる人間の対処は千変万化で、周易のトカゲの表皮の様相、つまりは西郷のような事になり、先に強い思想の有る者は曲線の現実を直線で突破しようとする。そしてこれはどちらも正しく、どちらも誤りで、結果として現実も動いて行くから、例えば感情、義理や人情と言ったものに縛られても、そこから遅れていく。しかしこうした義理や人情が無ければ人は付いてこない。宮本武蔵は五輪の書で敵の次の動きを見るとき、目の焦点をぼやかして全体のシルエットを見る事を勧めていますが、出現してくる現実の捉え方としては、こうした感じのものなのでしょうね。強さは弱さで、弱さは強さゆえ現在の状況があまり芳しくない者は現在の状況が良い者より、もしかしたら強いかも知れない。貧しい者、力なき者を蔑んではならない事を思います。
今日は親戚の四十九日法要へ出かけます。
そして5月2日は知人から田植えを頼まれていて、まだまだ暫く忙しい日が続きます。ですが、この忙しさもまた、もしかしたら現実に対する素直をもたらすものなのかも知れないですね・・・。そう思って自身を納得させています(笑)
コメント、有り難うございました。