第二章「ポツダム宣言の拘束」

第二次世界大戦では1945年5月7日、ドイツが無条件降伏をした時点で、世界の注目は日本に集まっていた。
そしてそれはアメリカが勝つか、日本が勝つかの問題ではなく、もはや日本がどうしてこの戦争の収拾をはかるか、つまりどう言う形で敗戦を迎えるかと言うことに関心が集まっていたのである。
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1945年2月、クリミア半島のヤルタで行われたアメリカ大統領ルーズベルト、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦のスターリンによる三者会談では、第二次世界大戦の戦況はもはや連合国の勝利が動かしがたいものとなっていて、では戦争が終わった後のことも考えようと言うのがその本旨だったが、この時点でアメリカは日本に敗戦を認めさせる方法として、日本本土決戦を想定していたが、その場合は日本国民総玉砕と言う事も有り得る。
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それゆえ幾ら戦争に勝つためとは言え、その民族を抹殺する事には抵抗があること、またたとえ追い詰められた敵とは言っても硫黄島の例もあり、アメリカ軍の損耗も軽視できない。
ではもっと確実な方法はと言うことを想定した場合、太平洋戦争開戦前、日本はソビエトと「中立条約」を結んでいて、そこには「相互不可侵条約」、つまりお互いの国は攻めないと言う条約が存在していたため、日本は戦局が不利になってきた場合、頼るところはおそらくソビエトしかないことは分っていた。
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そのためこの戦争では和睦はありえないアメリカにしてみれば、ソビエトがこの日本との条約を破棄し、連合国側で日本に宣戦を布告すれば、行き場を失った日本が諦めるだろうと考え、ドイツが降伏して2ヶ月、若しくは3ヶ月以内にソビエトが対日参戦する事を条件に、モンゴルの現状維持、南樺太、千島列島をソビエトが占拠することを容認、大連港の優先利益、旅順租借、満州鉄道の合同運営などを協議したのであり、これはイギリス、アメリカの大幅譲歩でもあった。
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そしてこの展開を考えると、ソビエトは日本と相互不可侵条約を結び、また片方でその反対の連合国とも参戦協定を結んでいた訳で、これが戦後日本人にはまことにけしからんことになって感じられたが、日本がドイツ、イタリアと三国同盟を結んだとき、そしてドイツがソビエト侵攻を始めた時点で、日本とソビエト間の相互不可侵条約は整合性を失っていた。
つまりはもしドイツがソビエト侵攻を成功させていれば、そのために極東の軍事行動をドイツから要請された場合、日本は不可侵条約を破って、ソビエトに軍事行動を展開せざるを得ない状況だった訳であり、この点を考えると、決してソビエトのみが不義だったとは言えない。
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それよりむしろ、事態が急変したのは1945年7月16日である。
この日世界で始めて原子爆弾の実験に成功したアメリカは、ヤルタ会談での譲歩を、「なぜ日本のためにアメリカが譲歩しなければならないのか」と考えるようになって行く。
つまりアメリカは第二次世界大戦が終わった後、ソビエトの権益が大幅に増大する事を懸念し始めたのであり、そこで原子爆弾の威力を手中にしたアメリカは、ソビエトのおかげで日本が敗戦を認めたと言う状態を避けようと考え始める。
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太平洋戦争はアメリカと日本の戦争であり、これに勝利したのはアメリカで有る、それがソビエトのおかげだと言うのは不本意であり、これまでに流された多くのアメリカ人兵士の血に報いる為にも、日本の敗戦はアメリカの手で、と言う事が考えられていくようになった。
そしてその結果がソビエトの参戦を前に行われた、8月6日の広島に対する原子爆弾の投下であり、これによってもし参戦前に日本が降伏してしまった場合は、ヤルタ会談での協定が反故になるかも知れないと思ったソビエトは、原子爆弾のことを認知した翌日、8月8日には日本に対する宣戦を布告する。
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しかしこうしたソビエトに対し、何が何でもアメリカの手による日本の降伏を目指すアメリカは、まるでソビエトの進撃を無力化するように8月9日、ソビエトの進軍と同時に、今度は長崎に第2号の原子爆弾を投下するのである。
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第二次世界大戦を考えるとき、どうしても疑問視せざるを得ないのが、アメリカの原子爆弾の投下である。
なぜ敗戦が決定的な日本に原爆の投下が必要だったのか、その背景は勿論実験の意味は大きかっただろう、しかしそれと同時に次なる帝国主義の布石が、この日本に対する原子爆弾の投下であったこともまた、疑いようのない事実のように私には思える。
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だがこうしたアメリカのもくろみはものの見事に外れていった。
中国では毛沢東が蒋介石を追い出し、結果として中国の権益を巡って日本とアメリカと言う2つの帝国主義がぶつかったが、そこで得られるはずだった中国の権益は中国共産党のものとなり、日本にもアメリカもそれは落ちていかなかったのである。
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第二次世界大戦を世界史観で見ると、そこには日本やドイツなどの帝国主義が、周辺地域を侵略した面が1つあるだろう、そしてこの戦争は「持っている帝国主義」と「持たざる帝国主義」の激突でもあったが、最後に存在したのはファッショ「全体主義」と「資本主義」の戦いでもあった。
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こうした3つの要素が絡んで勃発した第二次世界大戦、ここから日本人が何かを汲み取るとするなら、そこにあるものは「民主主義」と言うものではなかったか、即ちアメリカを日本が脅かした訳ではなく、日本がアメリカに脅かされたわけでもなく、中国と言う権益のためにぶつかった両方の帝国主義は、実のところ帝国主義の限界を示していたとも言えるのではないだろうか。
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第二次世界大戦後の世界を見ると、結果として帝国主義国家の植民地統治が困難になり、そこから植民地だった地域が独立を果たして行ったが、その一方で台頭してきたものは共産主義、社会主義と言う反帝国主義であり、こうした反帝国主義の存在はその後民主化されていった日本にとっては、敵対するかの如くに考えられていくが、実際はどうかと言うと、こうした反帝国主義の台頭こそが、戦勝国のアメリカであっても傍若無人なありようを許さず、またアメリカを制御して行った側面を持っている。
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ポツダム宣言は確かに日本に無条件降伏を迫るものだったが、それは片方で連合国の対日政策をも拘束するものだった。
アメリカは台頭してきた反帝国主義の影響から、嫌が上にも日本の民主化を計らざるを得ず、戦後日本の民主化の道は、こうした世界の民主主義に対する考え方のバランスの中で発展を遂げ、そこでは日本の将来こそが民主主義の将来であるとも言えたのである。
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そして社会主義国家のソビエト連邦は崩壊し、中国は事実上資本主義国家となった現在、日本がこうして崩壊せず存在し続けている事は、戦後世界が望んだ民主主義の道が、正解とは言えないまでも間違ってはいなかったことを証明しているのではないか、そう私は思うのである。
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第二次世界大戦では多くの人の血が流された。
そして死んで行った彼ら、彼女達が望んだ社会とは今のような社会であったかどうかは私には判断できない。
だが大きな時代の変遷の中で流された多くの血に対して、僅かでもその代償となるべきものがあるとしたら、私は日本の民主主義だと信じる以外に、彼ら彼女らの血に報いる術がないのである。
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6月23日と言う日を迎える度に、現在の沖縄が置かれた状況を考えると、いまだ変わらない何かを感じざるを得ない。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

1件のコメント

  1. 「マルチメディア」1・2

    昔、テレビでアメリカ人が、裸で砂漠で横たわって2日ぐらいすると、上空にハゲワシが舞い始める、と言う話が有った。

    現代は、映像~通信技術が発達して、居間に居ながらにして、世界の悲惨な状況がつぶさに見られるのであるが、チャンネルを変えたとたんに忘れて、構っちゃいれない。
    人間社会も人そのものも、それほど「悲惨」に対して進歩はしていない風だ。

    沢田教一の「安全への逃避」~
    フィン・コン・ウトの「戦争の恐怖」~
    ケビン・カーターの「少女とハゲワシ」~

    エチオピア、13歳のアイシャの水汲み~
    カンボジア・コンポンルアン水上村のベトナム難民~

    広島・長崎へのアメリカによる原爆攻撃、我が畏友、もう数年前に物故したが、少年の頃は、伊予に住んで居て、投下数日後に叔父さんを探しに、広島の街を探し回った。惨状が目には焼き付いてる様だった。

    勿論、気の毒であるし、今より何かすべきだろうが・・
    人類数百万年の歴史の中では、勝手な想像だが、今は最もその数が減じている時代のような気もする。日本だって、江戸時代までは、幾たびも飢饉~飢餓に襲われて、救恤しきれなくて、死んでいったものは多い。
    天災は減ったが、最も人為的な戦争に因るものが爆発的に増えたのだろうけれど。

    出来る援助はした方が良いのだろうけれど、出来もしない事なら、要らぬ希望を与えるより、黙って死なせてやった方が不幸の具合が低いかも知れない、という事も考えることが有る。

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