「まだ戦争ではない」・Ⅰ

「ローゼン公使、本日を以って大日本帝国はロシア帝国との国交を断絶いたします」
明治37年(1904年)2月6日、ロシア帝国公使ローゼンを外務省に呼び出した外務大臣「小村寿太郎」(こむら・じゅたろう)は、手を後ろでに組んで大きな窓を背に立つと、静かに、しかもしっかりとした口調でこうしてロシア帝国との国交断絶を言い渡す。
.
「閣下、こ、これは戦争を意味しているのですか」
狼狽したローゼンは思わず外交文書を握り締めると、驚いたように小村を見上げたが、それに対して小村は妙な事を言う。
「いや、まだ戦争ではない。まだ・・・」
.
ロシア帝国公使ローゼンは、日本といずれ戦争になる事は分っていたが、それがこの日だとは思っていなかったし、日本政府の対応を見れば、戦争の準備をしながらもまだ迷いがあり、もう暫く時間はあるものと思っていたが、アジアの弱小国家がまさか大帝国ロシアに立ち向かうなど、その現実が信じられなかった。
つまりローゼンはロシアのことより、日本のこの暴挙ぶりに驚愕していたと言うのが正しいだろう。
.
またこの時小村寿太郎がローゼンの「戦争か」との問いに、「いや、まだ戦争ではない」と答えていることの真意だが、実はこの2月6日早朝には、大日本帝国連合艦隊が長崎の佐世保港を出航していて、もはや日露戦争は事実上始まっていたのだが、それにも拘らず「いや、まだ戦争ではない」と言う小村の言葉は、全くもって謎としか言いようが無く、このことの真意は未だに分ってはいない。
だが、もしかしたら小村はこの時点でも戦争をせずに、ロシア帝国に勝つ方法をその胸に内に秘めていたのかも知れない・・・。
.
そして1904年2月8日、朝鮮半島の仁川沖で(にんせん)で大日本帝国連合艦隊による、ロシア第一太平洋艦隊に対する奇襲攻撃で事実上始まった日露戦争、この2日後1904年2月10日には、日本はロシアに対して宣戦を布告、ここに日本の存亡をかけた長い19ヶ月が始まったのだった。
.
だがこの戦争、その前段階から辿ってみると、そこにはちょうど日清戦争と同じような構図が存在し、内閣総理大臣「伊藤博文」と外務大臣「陸奥宗光」(むつ・むねみつ)が日清戦争を主導して行った流れが存在したように、日露戦争では内閣総理大臣「桂太郎」それに明治の元勲「山縣有朋」(やまがた・ありとも)、そして外務大臣「小村寿太郎」がこれを主導して行った流れが存在する。
.
中でも日露戦争に措ける小村寿太郎の関与は深く、明治28年(1895年)4月、アメリカの調停で成立した日清戦争の終結に伴う、日本と清国との講和条約を巡って、この講和条約が成立して6日後に日本に伝えられたロシア、フランス、ドイツによる同講和条約に対する干渉、いわゆる「三国干渉」勃発の事態に、この前年から清国代理公使の任にあった小村は、どこかの時点でロシアとの対立は避けられないことを直感したはずである。
.
日本は清との戦争で勝利を収め、清から多額の賠償金と遼東半島や台湾などの割譲を得るが、その6日後にはロシア、フランス、ドイツによって、この講和条件は重過ぎるとの意見が出されしてしまう。
なぜこうしたことが起こるか、その背景はヨーロッパ列強対日本やアメリカなどの新興国との対立であり、この時代まだアメリカはヨーロッパに対して、それほど意見できる身分ではなかったことから、こうしてアメリカ主導の調停には文句が出やすい環境にあったこと、そしてもう一つは大帝国ロシアの思惑である。
.
ロシアはバルカン半島への勢力拡大を目指していたが、いわゆるドイツ帝国ビスマルクが提唱したベルリン会議により、ここに一致してヨーロッパはロシアのバルカン半島進出を拒む姿勢を明確にした「ベルリン条約」を成立させ、これによって事実上ロシアはバルカン半島進出を断念、その代わりに極東の清、そして朝鮮半島への勢力拡大を目指してきたのである。
.
そして日清戦争で勝利を収めた日本だが、講和条約に干渉されても、この時点ではロシアには逆らえない、また本来ロシアの勢力拡大を望まないイギリス、アメリカ、そしてイタリアまでもが、清国での自国勢力が日本によって損なわれたくないとの思いから、この三国干渉には中立の態度を崩さず、その間にロシア太平洋艦隊が山東半島沖で軍事演習を始めるが、こうしたロシアの態度は明確な軍事的圧力だった。
つまりここでは何が起こったかと言うと、言い方は悪くなるが、日本が獲った獲物を、列強諸国で山分けしようと言う形が起こったのであり、その急先鋒がロシアだった訳だ。
.
だが残念なことに当時日本はこうした欧米列強を追い散らす軍事的根拠を持たず、結果として「三国干渉」には逆らえず、1895年5月4日、日本政府は「三国勧告」を受け入れる事になるのであり、この決断のおり明治天皇が「耐え難きを耐え、しのび難きをしのび・・・」とのお言葉を発せられたのである。
.
こうして日本を追い払った欧米列強は、次々清国の領土を強制的に租借(そしゃく・借りる事)と言う形で割譲していき、日本に替わって遼東半島を手に入れたロシアはシベリア鉄道の延長を始めるなど、益々露骨に極東での南下政策を進めて行き、こうしたロシアの有りように、日本国内では次は日本がロシアの標的になっているのではないか、そうした懸念もまた深まって行った。
.
また事実ロシアにもそうした意図は存在していて、そこでは急速に発展していく日本に対する認識の甘さがあり、一方で清国公使、ロシア公使と歴任して行った小村には、その兆候は僅かではあっても、確実にロシア帝国が傾いてきていることが肌で感じられたことだろう。
だからいずれ日本とロシアはぶつかるが、そこではどうしたぶつかり方にした方が日本のためには良いのだろうか、そんな事を小村は考えていたに違いない。
.
                        「まだ戦争ではない・Ⅱ」に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。