「まだ戦争ではない」・Ⅱ

日露戦争ではロシアとの関係を巡って、日本政府内部でも対立があったが、伊藤博文や井上馨などはロシア帝国との関係を強化し、それで平和的な友好関係でロシアの勢力拡大を阻止しようと言う思惑があり、彼らの根底には少し前のロシア帝国の威容に対する認識があって、ロシアには戦争で勝てないとの思いがあった。
それに対して桂太郎、山縣有朋、小村寿太郎は、若干その当時の正確なロシアに対する認識、また日本国内の発展に対する認識が有った。
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特にロシア公使としてロシアを深く探っていた小村には、共産主義が芽生え、地方経済が疲弊し始めているロシアは、伊藤等が考えているほど手も足も出ないものではないことを認識していて、上手く行けば、これはどう言う意味かといえば、ロシアに措いて共産主義運動が激化すれば、日本は何もせずして勝つことが出来るかも知れない、そのような思いがあったのではなかっただろうか。
だからこそ「まだ戦争ではない」と言う言葉があり、彼の頭の中では戦争とロシアの共産主義運動がセットになっていたのではないかと思える。
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三国干渉以降の日本は、その軍事的劣勢からロシアに対して、できるだけ友好的な立場で接していくが、こうしたことからロシアの態度はどんどんエスカレートして行き、ついには他の欧米列強も、清国におけるロシア勢力拡大に脅威を感じるようになっていった。
そんなおりドイツを通じて持たされたのが日本とドイツ、イギリスによる三国同盟の提案だったが、この背景は極東におけるロシア勢力の拡大を、日本を使って阻止しようと言うイギリスの思惑が有り、当時南アフリカで金やダイヤモンドの利権を巡ってブール戦争を起こしていたイギリスは、自国では極東アジアの利権を守る事が難しかったため、日本と同盟を結んでそれによってロシア封じ込めを狙ったのである。
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日本にとっては、特にロシアとの対立は避けられないと思っている小村にはまたとない朗報だった。
だが相変わらずロシアの力を恐れる伊藤博文は、これによってロシアを刺激するのはまずいとの判断から、この同盟には反対し、政府内部でも意見は二分して対立して行った。
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しかしこうした政府内部の状態を知りながら、明治33年(1900年)桂太郎内閣で外務大臣となっていた小村はこの同盟を勝手に進め、後少しで日英同盟は批准されるところまで持ち込む、がしかし、これに対し伊藤は単独でロシアに外遊し、そこでロシア皇帝ニコライ2世に謁見、友好関係の強化によってロシアの脅威をしのごうと考え、駐イギリス公使「林董」(はやし・ただす)に日英同盟交渉の停止を求め、これがイギリスの知るところとなって、日英同盟は交渉中止を余儀なくされる。
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この事態に小村は山縣有朋、井上馨などの元老と会談し、天皇に対して強い影響力のある彼らを説得する事で、日英同盟締結に向けた政府の意見統一をはかっていった。
小村はロシアとの対立を避けたい明治天皇のご意思と言うものを知っていた。
だからこそ伊藤博文の行動があるのであり、これを何とか一本化するには、やはり明治天皇を説得してもらうしかない。
そこで元老達をまず説得して、間接的に天皇の御裁定を頂く形をとったのである。
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分るだろうかこの小村の凄さが、外務大臣が内閣の意思統一をはかっているのである。
小村の中にはきっと清国の惨状がしっかりと目に焼きついていたに違いない。
力が無くて譲歩を重ねていると、その結果がどうなるか、それを清国でいやと言うほど見てきた小村にとっては、あからさまに軍事的脅威を前面に出すロシアに対して、友好関係だけでは日本が守れない事は自明の理だったに違いない。
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明治35年(1902年)、こうして紆余曲折は有ったものの、日英同盟は成立する。
日本が欧米列強と初めて締結した対等同盟、全6条、附則交換公文書1篇の中には、現代の集団的自衛を超える参戦義務が明記されていた。
つまりはこうだ、例えば日本が戦争している相手の国に対してこれを援助、支援する国があれば、イギリスはその国に対して日本側から参戦しなければならないのであり、これと同じ義務をイギリスに対して日本も負う、軍事協定なのだ。
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小村はロシアの力に対して、イギリスと言う他国の力だが、やはり力でこれを守ろうと考えたのであり、これがロシアに対する抑止力となり得るものと考えていた。
だがこうした小村の思惑は、以外にも逆にロシア帝国の内憂によって、さらにロシアの態度を硬化させていく事になる。
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ロシア帝国の経済の疲弊、そして地方の疲弊は益々加速してきていて、それに伴って共産主義の芽があちこちで起こり始める。
これを極東支配によって盛り返そうとするロシア帝国は、同じように疲弊したイギリスなど力が無い事を見越し、清国との約束など全く無視したうえ、撤退する約束だった満州には逆に軍事拠点を拡大し、明治36年(1903年)4月には清国との条約を一方的に破棄し、ここに日本との対立は決定的なものとなる。
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日本は戦勝した清国での権益を失い、そのうえ朝鮮半島までロシアに奪われ、次は日本だと言うところまで追い込まれたのである。
小村はおそらくこの時点で「戦争」を覚悟したはずである。
だがこの時小村が頭の中で描いている戦争は、太平洋戦争とは別次元のものである。
「もはやロシアを交渉の場に引き出すのは開戦しかないのか・・・」
つまり小村は「戦争」を交渉の一部と考えていて、ここにはロシアは許せんなどの感情論がない。
この点が太平洋戦争との決定的な相違点と言えるだろう。
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                        「まだ戦争ではない・Ⅲ」に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。