「まだ戦争ではない」・Ⅲ

明治36年(1903年)6月23日、この日宮中では刻々と迫ってくるロシアの脅威に対する問題で、御前会議が開かれたが、この席で総理大臣桂太郎と外務大臣小村寿太郎は、ロシアの満州撤退が実行されない限り、日本はロシアとの開戦に及ぶも止む無しと主張する。
だが海軍大臣山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)はこれに強く反対、その背景は今だ完備できていない海軍の装備の問題からだった。
結局この御前会議ではこうした山本の強い反対意見からロシアとの開戦は控え、交渉による問題解決に全力を尽くす事が決められた。
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だがこの山本の意見、その本質は「まだ反対です」と言うものであり、山本権兵衛はこれ以後世界中から艦船を買い集め、その中にはイギリスから紹介してもらった、アルゼンチンの艦船「リヴァタヴィア」と「モレノ」が含まれていた。
またイタリアの「アンサルド」にも買い付け要請を行っていたが、同じ事はロシアもやっていて、アルゼンチンは日本を支持しロシアの要請を断ったが、アンサルド社は態度を保留、その代金の支払いが早い方に売却との方針だったようだ。
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だからここでは少し話はずれるが、1982年に勃発したフォークランド紛争で、日本政府は真っ先にイギリス支持を表明したが、実際これは過去に恩義のあるイギリスとアルゼンチンとの紛争だったことから、少なくとも日露戦争でロシアに艦船を売却しない方針を採ったアルゼンチンの態度は、基本的には日本支持だった訳であり、こうしたことを考えるなら、早急にイギリス支持ではなく、「両国の平和的解決を希望する」が日本外交の正しいあり方だったように思うが、これも過去のことであり、是非も無しか・・・。
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ともかくこうして山本は政府のあらゆる資金を使い、また或いは流用し、艦船を集め、どうにか海軍の装備をそろえると、連合艦隊司令官に「東郷平八郎」(とうごう・へいはちろう)を指名し、これで本当に最低限では有ったが軍備を整え、ロシアとの開戦に向けての準備を完了させる。
だがこの東郷平八郎の連合艦隊司令官の人事に関しては、一部で順序として常備艦隊司令の「日高壮之丞」(ひだか・そうのじょう)が適任ではないのかとの意見もあり、これに関して明治天皇が直々に山本を呼び出してその理由を聞いているが、山本は幼馴染でもある日高よりも、東郷の冷静さを評価したことを奏上し、これに天皇も同意した。
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明治37年(1904年)2月4日、この日の午後に開かれた御前会議、この冒頭で山本権兵衛は「戦機は既に熟せるものありと謂うべきなり」と発言、これに基づいて対ロシア開戦は閣議採決された。
会議は終始重苦しい雰囲気に包まれ、明治天皇はこの御前会議で、こう憂いのお言葉を述べている。
「今回の戦は朕の意思にあらず、然れども事既に茲に至るのを如何ともすべからざるなり」
「大日本帝国はロシア帝国に対して宣戦を布告する」
かくて明治37年(1904年)2月10日、日露戦争が勃発したのである。
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そしてこの2月4日、御前会議で日露戦争開戦の裁可が下った翌日、小村寿太郎は同じアメリカのハーバード大学を卒業した、前司法大臣「金子堅太郎」を外務省に呼んでいるが、その席で小村は金子にこう話している。
「ロシアとの国力の差を考えれば、この戦争は長くは続けられません。ロシア側にある程度の被害を与えられれば講和に持ち込めるでしょう。そしてロシア側が講和を受け入れるとしたら、納得できる国はアメリカ、ルーズベルト大統領しか存在しません」
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「金子さん、あなたはルーズベルト大統領とは同期だ、今からあなたのそのアメリカでの人脈で、ルーズベルト大統領との関係を強化し、そして日本は戦争を回避するあらゆる努力を払った、それにも拘らずロシア帝国が全てを反故にしたため、日本は止む無く戦争をせざるを得なくなったことを、アメリカ政府とアメリカの世論に訴えて欲しいのですが、お願いできませんか」
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小村はいつもそうだが少しうつむき加減で、しかも切々と金子に語りかける。
これに対して金子は「私にそんな大役が務まるでしょうか」と不安そうな顔するが、「ルーズベルト大統領と友人であるあなたにお願いするしかないのです」と小村が身を乗り出し、暫く沈黙となった。
だがやがて金子は顔を上げると「分りました、この金子、最善を尽くします」と返事をするのである。
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小村寿太郎、実に興味深い男だ。
開戦と同時に講和に向けた工作をはじめ、アメリカ世論を使おうと言う訳である。
また小村は実際に講和についてこのような話をしている。
即ち戦争における勝利とは、どの時点のどの戦局をとって、誰が誰に何を認めさせるかによってその勝敗が決まる。
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明治37年(1904年)3月21日、陸軍第1軍が朝鮮半島に上陸、朝鮮半島に展開するロシア軍に対して攻撃が開始された。
また乃木希典(のぎ・まれすけ)指揮する第3軍は、旅順攻撃でロシア軍と激戦になり、ここに有名な二百三高地の戦では、殆ど泥沼の状態から児玉源太郎らの作戦調整によって、かろうじて勝利を得ることになる。
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また明治38年(1905年)5月27日には、ロシア最大の艦隊であるバルチック艦隊と、日本の連合艦隊が対馬沖で海戦に突入、連合艦隊は当時世界最強だったバルチック艦隊の19隻もの艦隊を撃破し、バルチック艦隊は降伏、このバルチック艦隊を破った日本海海戦の勝利によって、日露戦争は日本勝利と世界から認識されるのである。
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だが日本はこれが限界だった。
国家歳費では日本が2億5000万円に対して、ロシア20億円、常備兵力日本20万人に対してロシア120万人、これだけとっても日本は自国の10倍の国力を持つ国と戦っていたのであり、日本がこの時点までに要した戦争費用は18億円、実に国家予算の9倍近くを外国から借金し、またこの戦争で失われた兵力は10万人を超えていた。
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ロシア軍の死者数が5万人を切る状態であること、またもし戦争継続を考えた場合、日本はこれ以上戦争が継続されるなら敗北は間違いないところだったのであり、しかもこうした状況は一切国民に知らされず、増税に次ぐ増税で、いわば日本は民衆と言う内側に対して、またロシアと言う外に対しても、もはや限界だったのである。
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                        「まだ戦争ではない・Ⅳ」に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。