「輪島塗の工程」

輪島塗の工程は135工程とも147工程とも言われるが、現実には20の工程を超えず、その半分は研磨工程である。

輪島塗は大別して下地(したじ)「研ぎ」(とぎ)「上塗り」(うわぬり)に区分されるが、下地の時は漆に米糊や砥の粉、それに珪藻土焼成粉末である「地の粉」(じのこ)が調合されたパテ状の半流動状態の漆が使われる為、例えば丸盆などでも平面を塗った場合、これが乾燥するまでそれに隣接する内縁や裏面などが塗れない。

ちょうどコンクリートを施行した直後、そこへは誰も入れないのと同じで、下地漆の乾燥は早いときで4時間、冬季などでは14時間かかる事から、一箇所を塗ったらその当日は他の箇所を塗れない為、この一箇所ごとを1工程と換算した結果、135とも147とも言われる工程になったのである。

基本的には「素地調整」「こく惣」(こくそう)、「着せもの」(きせもの・布補強)「着せもの削り」「きせものけずり)、「惣身」(そうみ)「一辺地」(いっぺんじ)「二辺地」(にへんじ)「三辺地」(さんべんじ)までが下地工程になり、ここまでの工程の全てに研磨調整作業が伴うが、ここでの研磨は「磨き」と言い、「研ぎ」との区分は水を使うか否かと言う点になる。

つまり下地工程の研磨では水研ぎが無い訳で、研磨材は「荒砥石」(あらといし)や古くは「鮫皮」(さめがわ)や「木賊」(とくさ)等が用いられたが、「木賊」は茎にケイ酸が蓄積されて硬化している為に、古くから研磨材料として用いられていたものの、現在は殆ど乾性紙ヤスリ・ペーパーに添え木をしたもので研磨されている。

そしてこうして下地が終わったものを水研ぎする工程が「研ぎ」の工程で有り、「地研ぎ」(じとぎ)「中塗り」(なかぬり)「こしらえもの」、「小中塗り」(こなかぬり)、「拭き上げ」(ふきあげ)までを指す事になるが、ここで出てくる「中塗り」や「小中塗り」は重要な工程だが、それほどの技術を必要としない。

従って「中塗り」の工程は通常弟子がいれば弟子が塗り、下地職人が塗る場合も有れば、暇な時は上塗り職人が塗ったり、工場長である「筆頭」が塗ったりすると言うような工程で、特別に専門職を置く場合でも現役を引退した者、或いは発送業務専属の女性が塗っていると言った場合も有り、この「研ぎ」の次の工程が最後の工程で有る「上塗り」(うわぬり)になる訳で有る。

輪島塗の工程は現実には14工程が基本工程になる。

しかしその14工程を行う為にはそれぞれに研磨や研ぎ調整が必要になり、漆からゴミを除去するために吉野紙を使って濾過したり、寒冷紗(かんれいしゃ)を塗り器物に張る為にそれを切断する作業等々、全く見えない作業や研磨して消えてしまったものに費やされる工程が圧倒的に多い。

それ故に私などは見えないものによって輪島塗が為されていると思うのであり、実に全質量の10%しか光を発していない銀河「ダークマター」もまた然り、などと思ってしまうのである。

最後に、研磨で世界最高水準の技術はカメラや望遠鏡などのレンズなどを研磨する技術がこれに相当し、総合的な塗装技術ではグランドピアノなどの塗装研磨仕上げが世界最高水準になると思う・・・。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 八十八の手間が掛かるから、米だ、った言うのは、少し話が出来すぎていますが(笑い)
    何か人の利用に供されるためには、とても時間と技術がかかっていて、最後の輸送が何事も無く上手に行って、やっと一段落。

    大雨や台風の時に、田圃を見回って川に流されて亡くなる方が居ますが、想像できない人は、危険な時に見回らないでも・・見たいな発言をしますが、その時に出来ることをして、稲を守りたい一心なのですよね。結果が不幸にも悪すぎて・・・生きていればと考えても、難しい問題です。

    現物を見ながら説明しても、理解できない人がおおいですが(笑い)知識や経験がないと、目の前に展開していることが、何か分からない事が多いと思います。ずっと昔、東海村の住友系の核燃料加工施設で発生した臨界事故は、監督者が作業者に十分な知識や注意をを与えないで居たという事故の様でした。こんな事が日本中に起きている気がします。

    比較的標準的なレンズ磨きの機材を見たことが有りますが、とっても単純でした(笑い)。
    初めの内は自動で磨いていって最後は、長年の勘と手の感触で磨く、って言っていました、それで合わなければ、又磨き直す様な事も言っていました(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      例えば自身の親の死は、自身にとっては今世の一大事、大いなる悲しみとなりますが、全くあずかり知らぬ者に取っては何らの感情も出てくる事はなく、ましてや敵対する者が有るならこれを喜ぶやも知れない。この事実を忘れあたかも親の死を悼むのは万人の当然と考えてはならない。自分がやっている仕事はできるだけ意義の有るものと考えたいが、その現実は必要なき者に取っては全く意味がなく、人間の営みは宇宙の規模を考えるなら全く意味を為さない。それゆえ自身はこれを忘れず、こうした現実ゆえに他者のそれを慈しむ心が必要になる。形有る物は多くの形にならなかったものをして形を為し、ゆえに形有る物は如何なる陳腐なものであっても、それは何かを代表していると言えるのかも知れません。輪島塗の世界では皆が自分の技術が一番と言い、他者をないがしろにする風潮が多い。しかし実は他者の技術が上である場合も存在し、驕れば油断となって他者に抜かれていても気が付かない。私はいつもこんな事を恐れます。
      十数年前、私は巨大望遠鏡のレンズ研磨を見る機会が有り、そこでの精度と技術者の視覚判断は輪島塗の研磨技術が遠く及ぶものでは無かった。手仕事である価値と客観的価値のはざまで、手仕事だから優れていると考える事に多いなる疑問を持った瞬間でした。

      コメント、有り難うございました。

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