「眠りと死」

人の脳は物質的な作用に関してはある程度の事が分って来ている。
しかしそれが総合的な動きをした時、また全体で何をしているかについては殆ど分っていない。
また「私」と言うものを考えるとき、そこに存在する「私」は必ず2つ以上の存在を持ち、この2つの存在は互いに合わせ鏡のようになっていて、そこの中には無限連続で「私」が存在している。
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そしてこの2つの「私」について、このうち一つは自分を概念しているが、もう一つ自分を見ている「私」の存在があり、この点で言えば解離性同一障害、つまり古い言葉で言えば、多重人格は人類全体の生物的特性と言う面がある。
だが人間にはこの大まかな2つの「私」と、これらから干渉されない第3の「私」が存在する。
即ちそこにある「私」は「私」と言う概念を持たない無機質的自己であり、これはまるで機械的な生物的プログラムに近い「私」である。
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フロイトは心理学の深遠な部分を研究し、それを解明して行ったが、既にこの理論は過去のものであり、なおかつ現象論的なものとも言える。
例えば人間がなぜ眠るのか、またなぜ目が醒めるのかと言った疑問でも、睡眠には種類があることは分かっていても、なぜ眠るのかが分っていなければ、なぜ目が醒めるのかも解明されていない。
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人間の眠りが、もし目が醒めることと同じ道を辿って行くものであれば、目が醒める速度と眠りに入る速度は同じ速度のはずだが、現実は眠りに入る速度より、目が醒める速度の方が常に早くなる。
これは何故か、基本的に眠りは「危険」なものだからであると考えられる。
眠ろうと言う意思と、実際に生物的に眠ると言う事は一致しない。
つまりここで言えることは、人間は眠ろうと言う意思では眠れないのである。
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だから眠りに関して言えば、常に眠たくなる他の要素があって、それで眠たいとなるのであり、またいつもの習慣によって、眠る環境を整えることで、どこからか「眠る」ことを導入してこなければならないのである。
従ってこれを薬品で行った場合、それは眠っているのではなく、実は「虚構」を作っているに過ぎない。
つまり麻酔をしているのと同じ構造なのであり、この場合は基本的に第3の「私」は無視された状態となり、繰り返していると眠りのプログラムは益々阻害されていく。
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ではこの第3の「私」とは何か、これは現実には意思を持っていないが、フロイトの言う無意識の自我などと言う生易しいものではなく、完全に一定の要件が揃えば、他の全てに優先して発生してくる「プログラム」、または「反応」のようなものと考えた方が良いかも知れない。
例えば交通事故で車にはねられた場合、高く放り投げられたように空中に浮いた状態になった人間は、その自身のありようがまるでスローモーションのように見えるが、これは一瞬にして全てに優先して割り込んでくる第3の「私」の作用であり、それは生物的な補助プログラムのようなものによって、通常は使われていない脳機能に瞬間的な機能向上作用を起こさせるからである。
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だからこの瞬間は通常意識できる自分ではない、生物、「体」としての自分が、全く意思を持たずして、自身と言う生物の生命を何とかして維持しようと言うことに全てを集中させている瞬間であり、これが生物としての「私」と言えるものだ。
だがこうして発生してくる第3の「私」はあらゆる状況から、これは生命を維持する事が困難だと判断した場合、例えば50mの崖から転落した場合などは、強制的に意識を遮断する。
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また生命維持に関して大きなダメージを受けた場合も、同じようにまず痛みを遮断し、次には意識も遮断させる。
だから人間とっての「死」はその状況によって決められているのではなく、この意味に措いて「死」は意識する事は出来ないが、常に自分の判断なのである。
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そしてなぜ眠りが危険なのか、これは勿論生物の本能として、その状態が敵に狙われやすいと言うこともあるだろうが、それ以上に「眠り」と「死」は近い状態ではないかと考えられるからである。
「脳死」を人の「死」と考えた上で現代医学は臓器移植の基準としているが、実はこの考え方には大きな疑問が付きまとう。
つまりここで言う第3の「私」は基本的に意思を持っていないが、これによって眠りの状態にある者と、脳死の状態は決して遠いものではなく、例えば人間の脳は常に自分の容積や体重が周囲の環境の中で、もっと言えば宇宙のどの位置にあるかを把握している。
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だから人とぶつからずに歩けるし、物を持つ事も出来るが、これが何らかの障害によって自分の位置が把握できなくなった場合、極端な状態では自分の姿が自分の目の前に現れてくる事があり、この状態が眠りの中で起こった時は、開放された脳の記憶や想像の中で自分の位置が分らなくなる。
つまり自分の体の中にありながら、意識が彷徨う状態になった場合は、夢の中から帰って来れない状態を引きおこし、これは基本的には脳死に近い。
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少し難しくなってなってしまったが、パソコンが起動してもソフトが動かない状態と思えば良い。
これでは総体としてパソコンは使えないが、ではこれでパソコンが壊れているのかと言えば違う。
眠っている状態とはまさにこうしたことなのであり、もしかしたら少し叩けば起動するかも知れない、また電源を切って再起動すれば動くかも知れないと言う不安定さを、確定的なプログラムよって安定させているのが第3の「私」だと言うことが出来る。
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そしてこの働きを通常の脳が行っているのではないことは、さまよっている脳とプログラムが同じ容積のなかに有るなら、脳が彷徨う事はなくなるからだが、例えば金縛り現象で、自分の呼吸音が、明確に自分の口の位置とは違う場所から聞こえてくる場合があることを考えるなら、ここに自己の位置をずらして認識している自己がある限り、通常の脳は眠りやそれが目覚める事に関して、その全てを把握しているとは言い難いことになる。
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それゆえ第3の「私」は眠りに付くことと、その眠りから意識を戻す機能を持っていると思われるが、この機能は同時に「死」に対する機能のおそらく一部であると推測される事から、タイミングが必要になり、それが原因で眠りに付く方が難しく、反対に目覚める方はタイミングの必要がないために早くなるのではないか、そう思われるのである。
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「私」は「私」と認識できない「私」によってどこかで守られてもいるし、「私」の全能力を使っても解決が出来ないときは、その「私」が「私」に対して判断を下している可能性がある。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「眠りと死」

     覚醒しているという機能は装置されているようだが、睡眠と言うのはそれ以外の時、という事かも知れない、機械には始動&停止が有るが、何かきっと深い進化上の節約とかが有りそうな気もするが、脳の多様な働きの組み合わせで、成り立っていて、余りに複雑微妙で、解明できないだけかも知れない。

    今、AIと言う概念が、急速に発達してきて、実用でも使用頻度が高くなってきているが、ほんの少し前までは、マイクロチップとか言って、やや複雑な一連の動作を自律的に制御するものが人口知能のように思われてい居た様だが、AIも実はその延長線上のものであり、人間の脳の働きとは遠く及ばない、というより、似て非なるものであろうと思える。

    色々心配して、暴走を止める機構とかまで、考察されているようでもあるが、人間の脳の能力の深淵について知見が足りなすぎるので、AIを過大評価しているにすぎない様にしか見えない。

    先日、軌道しか走らない、無人走行の電車が暴走している体たらくで、一般公道を自由に走れる自動運転も、ごく狭い限定的な走行なら、或る程度可能だろうが、人が運転するような事は、二重の意味で実現の道は遠いように見える、人の運転が完璧と言う意味では無く、人は何をするか分からない、と言う意味でも、そんな中で、人を解明していないのに、自動車と言う機械をその中で、運行させるのは至難だろう。
    コンピューターに大学受験をさせて、合格させる実験は、今は遣っていないが、そのコンピューターに覚えさせるための費用が掛かりすぎて、断念したようだ、偏差値50ちょっと、位の大学どまりだったようだ~~♪

  2. 「救済策と言う税制」

    昔の頭のいい人、多くの制度は支那から学んだのだろうけれど、師匠が悪い~~♪

    現代は、国政に野党として関与したい候補者が、最低賃金が一律@¥1500/時間にして、保育園から高等教育まで、全て無償にして・・と多分、出挙より、副作用が激甚な処方を喧伝して、表の薬効だけ言い募って、副作用にはダンマリ~~♪

    @¥800だったら、その仕事を継続して行ける雇用主と被雇用者が何とか食っていけたが、先に雇用主が、直ぐ被雇用者が仕事を失って、共倒れ(笑い)。
    保育園の方は、24時間x365日預けっぱなしで、BF~偏差値35の大学卒業生が、世に溢れ、在学中アルバイトに励み、貯めたお金で自分探しの旅に出て、18から手に職業を付けた者は、高い消費税と低い売上で、一家路頭に迷う~~♪

    そんな日が来る前に、三途の川を渡りそうだが、どっちが幸せか、究極の選択なのは今日の参議院議員選挙と似ている~~♪

    候補に良い人が居ないから、棄権するという方も居る様だが・・所詮は猿知恵で、大伴旅人の『あな 醜 賢しらをすと酒飲まぬ人を よく見ば 猿に かも 似る』を捧げたい~~♪

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