「正常と異常」・Ⅱ

ラス遺伝子が支配しているたんぱく質は、細胞にホルモンなどの刺激が伝達され、細胞内に「増殖」の命令が伝えられる、メカニズムに関係していると思われている。
またラス遺伝子以外では、染色体の中で癌遺伝子のコピーが増幅されたり、他の染色体に転座している場合があり、このような他の働きによっても、癌遺伝子の働きが異常になったりしているものとも考えられているが、こうしたことを「癌遺伝子の活性化」と言う。
.
癌遺伝子には多様な働きを持つものが存在するが、癌細胞では複数の癌遺伝子が活性化されている場合が多い。
人体を構成している細胞はおよそ60兆個、その細胞の中には、血液細胞のように絶えず増殖を繰り返し、新しい細胞が作られるものもあるが、同じ細胞でも神経細胞のように成長期を過ぎるとほとんど増殖を止め、生き続ける細胞も存在する。
このような細胞をコントロールする仕組みは、血液をと一緒に運ばれる細胞の増殖を促す因子、「細胞増殖因子」が細胞表面にある受容体(レセプター)に、まるで鍵と鍵穴のように結合する事で始まるが、こうした一連のことがあって、細胞の内部に「増殖をしなさい」などの指令が伝達される。
.
癌遺伝子には細胞増殖因子やレセプターを支配する力があり、時には癌細胞でこの両方が活性化されている場合も考えられ、このような癌細胞では、自分が自分の増殖を指示している形となるが、この増殖のコントロールは「自己分泌」と呼ばれる。
また癌遺伝子には細胞核の中にあって、他の遺伝子の働きを調節する因子、細胞増殖のコントロールにも影響する因子を、支配する力を持つものも存在している。
.
人体の細胞の癌化は、相当に複雑な段階の変化があって初めて生じるものであり、唯少数の癌遺伝子が動き出した、または特定の癌抑止遺伝子の機能が失われた、そのようなことでは細胞の癌化が起こってくることは無い。
ここからはアメリカのB・フォーゲルシュタインの仮説だが、彼は遺伝子レベルの変化と細胞の癌化について次のように語っている。
.
大腸癌が発生するまでに、癌細胞ではどのような遺伝子の変化が発生するかについて、
まず第5染色体の上の欠損が引き金になって、上皮細胞に高度な増殖が起こり、第1段階の腺腫となり、次いで異常な遺伝子の発現を促進させると考えられているDNAメチル化の低下が腺腫に影響を及ぼし、ラス遺伝子の突然変異が第2段階の腺腫を発生させる。
それから第18、17染色体の欠損がそれぞれ癌化を加速させる。
.
これがB・フォーゲルシュタインの仮説だが、子宮頸癌、脳腫瘍、肺癌などでもこれと同じような多段階の遺伝子レベル変化が蓄積されて、最終的には癌細胞が発生してくると考えられている。
.
またこうした癌細胞の転移に付いて、癌細胞は人体の結合組織を破壊しながら、原病巣から転移して行こうとする次の病巣に向かうが、この時、結合組織を分解していくコラーゲン分解酵素が必要になってくる。
その為転移する癌細胞では、このコラーゲン分解酵素の働きを阻止するTIMP-2と言うたんぱく質の量が低下し、そのうえ転移する場合、単純に臓器に定着するだけでは済まず、そこに癌細胞が更に爆発的増殖を遂げるため、転移病巣内に血管網が新しく造られることになる。
.
このことから癌細胞は、出来るだけ早い増殖と発育のために、新しい病巣内で血管網を構築する力まで持っているのであり、このようにして作られる血管網はまことに繊細で量が多く、このことが比較的早い段階での病巣内出血に繋がって行くのである。
ちなみにコラーゲン分解酵素を阻害するTIMP-2たんぱく質は血管網の新設を抑制する働きも持っており、NM23遺伝子が支配するたんぱく質と、このTIMP-2たんぱく質は、どちらも癌転移の抑制効果があるとされ、癌治療の効果が期待される物質である。
.
そしてここで出てきたMN23と言う遺伝子だが、実はこれが結構興味深い遺伝子であり、1987年アメリカのL・リオッタは、癌転移を起こす悪性黒色腫腺(メラノーマ)と転移を起こさない悪性黒色腫腺を比較した結果、転移を起こす癌細胞ではNM23と言う遺伝子がその機能を失っている事を発見した。
そして実際癌細胞のNM23遺伝子が働いている乳癌患者では、癌転移が少なかったことを確認している。
.
またこのNM23遺伝子は、1988年、やはりアメリカのA・シャーンが発見したショウジョウバエのawd遺伝子と酷似していて、awd遺伝子に欠損を持つショウジョウバエは、羽を作る細胞の移動と構築が出来ず、羽の形成に異常を起こすことが発見されていたが、更に驚くべき事は1990年、ドイツのR・マッツェルによって発見された粘菌の遺伝子、「ヌクレオシド2リン酸キナーゼ」の遺伝子と、このNM23遺伝子が酷似している点である。
.
粘菌はバクテリアの一種だが、栄養条件が悪化してくると菌が集まって塊を形成し、ゆっくりと動き出す性質を持っている。
「ヌクレオシド2リン酸キナーゼ」は、粘菌の細胞が相互に信号を送って「塊になれ、動け」と言う指示を、細胞内に伝達している事が分ったが、これによって癌細胞が離れた臓器へ転移すると言う仕組み、ショウジョウバエの羽を作る細胞が移動する仕組み、そして粘菌などの単細胞生物の移動の仕組みが、同じようなメカニズムになっていることが分ったのであり、癌の治療効果に対する期待は勿論、このことが生物の深遠なるところを知る、何らかの手がかりとなるのではないか、そうしたことを私などは夢見てしまう。
.
                          「正常と異常・Ⅲ」につづく
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。