「当然の事」

大東亜戦争以前、日本の破産法は今の破産法より厳しいものであり、例えば現代なら破産しても戸籍にそれが記載される事はないが、戦前のそれでは戸籍に赤い斜線が入れられたり、やはり戸籍に「破産」と赤字記載されたと言われている。
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また多分に良い意味でも悪い意味でも共同体意識の高かった昭和40年代までは、経済的に没落した「家」に対して自治競売制度のような仕組みが残っていて、経済的に立ち行かなくなった「家」は、1週間を待たずして地元住民や親戚縁者などによって「競り」(せり)にかけられ、そこで家屋敷や田畑、また高額な家財などが、一般民衆を入札対象にして競売にかけられたものだった。
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そしてこれは高額な新品が変えない地域住民が安く高額製品を手に入れる機会であったと同時に、債権者に対して幾ばくかの債務を返済して、なおかつ債務者の必要最低限の生活は保障し、その生活の手段を決定する方式であったことから、現代の破産法よりもある種、現実的解決方法と言えるもので、こうした形態は他にも職人がその職業を廃業するとき、夜逃げした家、商店の廃業についても、似たような非法的自治清算システムが存在していた。
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こうしたことから現代社会では個人の破綻も、その債権者が銀行などの金融機関が殆どとなっている為、どちらかと言えば準公的な債権処理がなされるが、少し以前までの日本の破産清算は個人的、地域自治的な要素を持っており、その為に例えばこの様な破産における処分でも、個人が一定の社会的責任を負わねばならなかったのである。
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町内会の役員になれない、地域社会の決め事に意見が言えない、「寄り合い」などの地域集会では末席になる、などの社会的制裁が破産には付きまとったのだが、それでもその地域で暮らしていく事は保障され、その生活手段に付いてまでも一定の救済が行われたのであり、町内会費や地域負担の免責などもこれには含まれていた。
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それゆえ、これらのことを鑑みると大東亜戦争後の日本は、確かに「平等」とか「個人の権利」は発展したが、こうした思想的なものを重視した結果、地域の自治が法的なものに移り変わって行き、本来地域自治で解決が図られるものまで、公的な部分が干渉してしまった経緯が存在する。
このことは何を意味するか、現実に起こってきたことは地方権利の中央集権化となり、また民衆の自治的責任放棄である。
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封建制度の弊害は「自由」「平等」「個人の権利」を認めないところにあるが、その反面「自治」や「自己責任」に対する共同責任的な部分では、良い効果をもたらす事実も存在したのであり、こうした観点からすると、封建制度的な思想と自由主義的な思想にはバランスが必要だったのだが、戦後、アメリカの自由主義思想一辺倒の政策は、このバランスを一挙に駆逐してしまった。
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そこで起こってきたのが自治権利の中央集権化であり個人主義なのだが、所詮思想中心の政治では必ず高邁な思想の影で、現実が置き去りにされることになり、現代の破産では確かに法的な清算は地域によって行われる事もなく、また破産者が社会的に差別を受ける事も法的には存在しないが、その代わり、生活できなくなって自殺する者が出るのであり、少なくとも地域や自治が個人の実情を救う事もなくなったのである。
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またこうした「自由」「平等」は本来とても厳しい個人の責任をともなうものだから、自己責任と言う点では、自殺者の増加は帰結的な現象でもあるが、一方で平等を重視した結果、過度に進行した国家権力、行政の市民に対する干渉は、市民から自己責任の意識を奪い、ここに市民生活の細部に至る問題にまで、国家権力や行政の法的責任網が張りめぐらされた社会が誕生し、こうした経緯から、本来は市民個人が問題解決に当たらねばならない事柄に付いてまで、市民はそれを国家や行政に求めるようになり、それを解決する事が政治と考える循環が発生してくる。
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これが衆愚政治の循環であり、国家としての誇りや、大計を持たない行き当たりばったりの政治が出現することになるが、菅直人総理が提唱した「最小不幸社会」などはまさにその極みと言える考え方だ。
ここで起こってくるものは自己責任を重大なことと考える者、即ち最も健全な考えの者の自殺の選択であり、自己責任を放棄する傾向の者の、更なる国家や行政に対する要求や援助要請であり、後者が正論としてまかり通る社会である。
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最近知人から高齢者夫婦のことで私は或る相談を受けたが、それは国民年金だけでは月々3万5000円ほどしか貰えず、生活に困っていると言う話だったが、行政はこの様な老人家庭を見殺しにして良いのか、と言うことだった。
だが話を聞いてみると、家は旧家の豪邸、そして子供はいないのかと聞いたら、子供は都会に住んでいるのだが、彼らには迷惑をかけたくないとのことだった。
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私はこの時、相談してくれた人には申し訳なかったが、それは自分で選択しているのあり、その場合はたとえ死んだとしても行政に責任があるとは言えないと進言した。
家族のことはまず家族で問題解決を図るのが基本であり、そこではどんな状況になろうとも、親の面倒は子供が見るのがまず原則だが、それをしないで行政や国家、政治が悪いと言うのは家族、子供の責任放棄だと思う。
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私の父は進学して医師を目指そうとしていたが、家庭が楽ではなく親の面度を見るために諦めて農業を継いだし、私は父とは違うが、それでも有利な都会生活を切り上げて、やはり故郷の家族を守ることを選択した。
何でも自分の思う通りになるのが普通の社会であると思うのは、良くないことだ。
世界を見回してみても自分の夢より現実の生活に追われる者がその大半であり、自分たち夫婦と子供は幸せに暮らして、田舎の祖父母は放置し、それが行政の責任だと思うことは人としての責任を放棄している。
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自分が現在どんなに素晴らしい地位にあろうとも、それでも親を見殺しにして得られたものなど、必ず自分もいつか更に厳しい現実が訪れるに違いない。
何をしてでも家族のことは家族でまず問題の解決を図り、それでもだめなら行政や国家の援助を考えるのが、国家を形成している国民の義務であり、それをさせたくなくて極貧生活になっているのは、ただの自己選択、希望してそうなっているいるに過ぎない。
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ちなみに私は子供には故郷に残らないように申し渡してある。
だからもし私たち夫婦のうち、もし妻が残ったら長男が引き取ってくれるように頼んであるが、妻が先に死んで自分が残ったら、その時は葬式代は残しておくから、私のことは構うなと言うことにしてある。
自己責任で子供達の幸せを選択したのだから、私は行政に頼らず、孤独死するのが正しいだろう。
そして私の「家」は私を最後にしたいと思っている・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「当然の事」

    アメリカ型の資本主義からは、道徳~宗教的側面が、全てそがれて、全くの弱肉強食、ケニヤの草原の様になっている。
    日本に名称は無かったが、日本的経済は、道徳を含むことは当然と言う事であった。道があるところには、道と言う言葉は不要で、道が無い所には、自覚させるために道と言う言葉が出来るのと似ている。

    最近盛んに、子供に迷惑を掛けたくない~子供に少しは残しておきたい、というサクラが出て来て、投資信託や保険を進めるだけなら兎も角、FXまで勧める、思想低級高利貸し~ハゲタカ投資会社、土地活用会社が多くなって、それに乗せられる連中も多くなった、バ〇が増えて、アメリカ型商業主義に乗せられている。

    保育園に子供を連れて行って、「我が家の教育方針は、子供の自主性と個性を尊重するという事ですから、一切叱ったり注意したりしないでください」という保護者(父兄と言うと、母は含まれないのか、と文句が出るらしい~~♪)が、居るらしい、将来が楽しみだ~~♪

    子供は家族・親類~学校~地域などで育てるものであったが、今は、赤の他人が、保育所で育てるものらしい~~♪

    ~~~
    イヨッ、ダイトウリョウ!
    それも生き方・・万が一不測の事態が出来しても、それも生き方。
    ~~~
    諸行無常。

  2. 「ネズミの耳のような・・・」

    昔、子供の頃、近所に住む伯母から、角が生えた、ヘビの話を聞かされたことが有る。

    実は自分も見たことが有る・・

    その実は、大きなヤマカガシが、大きなトノサマガエルを呑み始めから、終わりまで見たことが有り、その間は、少し離れて見ていたら、逃げないで、その場に留まって、呑むのに専念していた。ちょうど最後の刹那、後ろ足が数センチ、口から出ているところは、龍の頭から角が出ているようで、正しく、角の有るヘビであった。

    飲み込むと、直ぐ逃げ出した。喉から少し下が、相当に太くなっていて、日ごろヘビを目の敵にしていた、ガキ連中だったが、その時は、何となく、不憫に思って、殺さ無かった。
    それ以降は高度成長時代に成って、農薬を多用するようになり、一時用水の魚も、田んぼのバッタやカエルもその捕食者である、ヘビやトンビなども激減した。今は昔日とは違って、耕作面積も減ったが、生物はやや回復傾向にあるようだ。少なくとも、田んぼのあぜ道を歩いて、動物の動きが感じられない、という事は無くなったようだ。それには、トンボも多くなった~~♪

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