「翳りゆくもの」

「尾張の大うつけ」こと織田信長が一番最初に行った事は流通の改革だった。
それまで高い税が課せられていた「市」での商いに付いて、その税金は大幅に緩和され、これによって近郷近在から商品の流通が促進された結果、従来まで下降気味だった「市」の税収は、値下げしたにも拘らず大いに増大し、また商品や技術、人がそこへ集まり、織田領は大いに栄えることになっていった。
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また小田原の北条早雲(ほうじょう・そううん)、彼もこの時代にしては近郷近在から比べると安い年貢を設定し、自身の暮らしぶりは質素倹約に努めた結果、やはり小田原は一つの理想郷とまで謳われることになり、人や技術者、そして商品などの流通が促進され、名君の名を欲しいままにする。
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良い為政者とは経済に強い者であり、その経済をして軍備を整え力をつけるが、いかに高い理想を掲げようとも、経済に弱い為政者の治世はそこに発展性がなく、また未来に希望を抱けない社会となっていき、やがてその社会は力を失う。
また力のない為政者ほど、苦しい時に税を吊り上げ、そこで解決をはかろうとするが、このことがもたらす結果は必ずと言って良いほど悲惨なものであり、即ち良い為政者ほど苦しい時は税を軽減する方策を持つものである。
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更に古来より関所を厳しくすれば流通は制限され、また商品や人の流れも悪くなることから、一般に良い為政者の取る政策と言うものは、関所やあらゆる規制を軽減していく方向のものとも言え、この点からすれば、徳川家康が引いた封建制度の有り様は常に現状維持に重点が置かれ、そこに変化を嫌った風潮が形成されていたことから、極めて生産性の低い、いわば社会主義政策だったとも言えるのである。
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そしてこの徳川政権と同じ傾向にあるのが現在の日本であり、自由主義、資本主義を謳いながら、その実あらゆる細部にまで政府、行政の法や規制が入り込んだ社会は、実質の社会主義であり、ここで求められる理想は現状維持でしかなく、あらゆる発展性はその規制の中で費えて行く傾向を持っているが、これは一体どう言うことかと言うと、自身が高みに上がっている状態であり、例えば水があるなら、その水は高いところから低いところへ流れ落ちてしまっていく社会である。
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これに対して良い為政者の政策と言うものは、自身が低いところにあって、そこへ高いところから水が流れて、溜まってくるような仕組みを持っているものだ。
また基本的には戦後経済の発展の為に考えられたあらゆる仕組みは、従来であれば経済や流通の大きな手助けとなってきた面があるが、これらに至っても老朽化したものとなってきている現在、そのむかしの「発展の擁護」から、今は「妨害」になってしまっていることを認識しなければならないだろう。
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そしてそうした旧来の仕組みで、現在の日本で一番その経済や商工業の発展を阻害してるものが、「商工会議所」と言う組織である。
この組織は事実上1990年頃からその機能が無力化していたが、現在に至っては商工業の発展をもっとも妨害している団体であり、市町村単位の行政からの天下り団体としての面を持ち、この意味から、今後もっとも廃止しなければならない団体となって行くだろう。
またその無能ぶりは目を見張るものがあり、この傾向は全国的なものである。
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例えば融資を受けるにしても、本来なら商工会議所で融資斡旋を受ければ、円滑な融資が受けられるはずだったが、その実情は国民金融公庫へ直接申し込んだほうが常に融資の実行が早かった。
つまり商工会議所を通したおかげで、融資の実行が遅れる実態が存在したのであり、これが国からの補助金などを受ける場合は、更に凄いことになっていく。
「審査に時間がかかります」と言う返事が帰ってくるが、そのことを国の機関に問い合わせれば、審査などは全く存在せず、唯報告書の書き方を商工会議所が知らないだけだったと言う事まである。
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また脆弱な経済しか持たない地方の商工会議所は、特定の政治家に傾いた行政の干渉を受け、こうした地方の商工会議所は大部分が行政の負担金で予算を組んでいることから、この行政の干渉を跳ね返すことが出来ず、前出の融資でも大変恣意的なものが多く発生している。
ひどい場合には、例えば商工会議所が実施する地元商工業者に対するアンケートで、行政に対する不満や、議会に対する不満が噴出した場合、それを議会が「議会の冒涜だ」と脅して、商工業者達の正直な意見に対し、アンケート結果を撤回するよう圧力を加えたりと言うことまである。
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詳細な地域は申し上げられないが、行政に対立的な商工会議所会頭が存在した場合は、行政が補助金を削ったり、遅配したりして圧力を加え、結局本来会員の選挙で選ばれるはずの会頭が、首をすげ替えされる事態も存在しているのであり、現在日本国内にある商工会議所の実質的事務責任者である「専務理事」には大部分が行政、つまり市町村の職員が就任し、また、その指導員の上層部も、殆ど全員が市町村の職員OBが天下りしているのである。
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そしてこれらの天下り職員達にはもともと現状維持の能力しかなく、権威主義で若い職員達を縛り、結果として商工業者たちの要請には殆ど応えられていないばかりか、実務に関してはその無知なるがゆえに、業務を妨害していると言えるのであり、本来が現状維持しか念頭にない行政の考える経済発展手段とはまことに儚いものが多く、それを推進するのが商工会議所の仕事となっている場合が多い。
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それゆえ、一般商工業者は行政と商工会議所に逆らえず、仕方なく行政の事業に参加させられている現状があり、実のところ大変な迷惑を被っている場合すら存在する。
またこうした商工会議所の役員や理事と言ったものも、地方へ行くと創業者の2世、3世が多く、彼らに具体的な経済に対する考え方があるかと言えば、そこには何もないのである。
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さて如何なものだろうか、現状で言うなら商工会議所と言う組織については、もはや手遅れの団体であり、経済的な必要度から言えば弊害が多く、また地方公務員の天下り先にしかなっていない実情を鑑みるに、7分3分で「廃止」した方が、地方経済活性化に繋がるようにも思うのだが、どうだろうか。
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如何なる存在もそれが永遠のものはなく、あまたの生き物も物も、それが必要とされる時も有れば、やがてそれが邪魔になってくるときもある。
破壊は創造より常に易しい・・・と言われるが、人の世、社会と言うものは、常に破壊は創造より難しいかも知れない・・・。
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本文は2010年、7月23日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「翳りゆくもの」

    赫々たる、と思われている(笑い)経営者が、国家の施策に、規制が多いだの、国際化に対応していないだの、ガキのような文句を言って、喝采を浴びていて、大誤解が発生しているようであるが、近年は引退その他で、発言が減って来てたようにも思うが、中には、未だに、企業の使命を弁えず、株価総額が企業価値と思い込んで居る、バ〇も居る様だ。中には、自国の規制が、税率も含めて、厳しいので、海外へ本社を移すとか、オオバ〇者も居たりする(笑い)。

    国家は簡単に言えば、商人の為に有るのではなく国民の為に有る。

    経営者は、現状において、良い製品・役務を市場に供給し、国家・社会に貢献し、従業員・株主の生活に資すればいいのであって、政治が遣りたければ、政界に転出すればよい。自分の事業の為に、国家を歪めては、どっかの国と同じようなものだ。

    商工会議所を市議会・協同組合に変えても本旨に矛盾は無さそう~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      国家は国民の為に有るのではなく、対外的には国家の為に国家が存在すると言うのが正しいかも知れません。
      およそ生物の基本は「自分」ですから、誰も国家の事や他者の事は気にしないのが標準と言うものだと思いますが、どこで勘違いしたか世の為人の為と言う綺麗ごとですり抜けようとする者も出てきます。
      商いをする者は「利益」の為にやっているのであって、社員の為でも社員の家族の為でもない。ましてや公に寄与するなど商人には以っての他で有り、全ては利益の為の道具で有る事の覚悟の無い者は、経済をおかしくする。
      そして商工会議所などの組織はもう日本に必要は無いだろうと思います。
      にも拘らず相変わらず小さな利権を貰って維持していこうとする姿は、愚かさや哀れさを通り越して滑稽でもある。
      無能なものが金融相談、経営相談などしては余計倒産企業が増えると言うものです。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「自由の概念」

    碩学の講演を聴講しているようで、大変勉強になりまして、誠に有難うございます~~♪

    西欧キリスト教白人社会における、神との一方的契約から逃れる事、教皇~皇帝~地方領主から逃れる事、寒冷な環境の農業から来る飢餓から逃れる事など、因って立つ精神世界が、相当違う所の概念を、必要不必要は兎も角、移植するにあたって、混乱が生じたであろうことは十分理解できるが、もともと自由が目の前に、何の闘争も無くでもないが、在れば、そんな概念はもしかしたら、不必要で発生しなかったのかも知れない。

    支那に仁義礼智信などが無いから、論語ほかで民衆を教育したが、未だに無くて、自己本位~金権主義からは逃れられていない様にも思える。

    神社には、○○すべし、△△すべからず、など教義も無く人工のご神体も無く、宗教の体を無いしていない風に見えるが、日本人の心の中にある愛~思いやり~恐れなどは、そこから来ているようにも思える。

    戦後GHQが即席に作った、憲法を、金科玉条に守っている連中も未だに居るが、多分、憲法の意味さえ、条文と言う意味では無く、作った基本法と言う意味、分かっていないようである。

    ヘンリー・H・ストークス・・・“憲法即製(笑い)スタッフの中に無学な若いユダヤ・ドイツ系の女性が居た。法律については全く無知だった。この一家は日本によってナチスの迫害から救われて、日本にやってきた。日本に対する大恩をそっちのけにして、日本の女性文化を破壊して、浅はかな物に置き換えたことを、晩年まで得意げに自慢した。日本ほど、女性が恵まれている国は無い。だから女性の平均寿命が世界のどの国よりも高い”・・・と辛辣な事を言っている~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      自由と言うのはいまや理論上の話であって、それが現実に有ると思っている者は、その愚かさを知るべきだろうと思います。
      地球に自分以外誰もいなければ自由は有り得る。
      しかし自分以外にたった一つでも生命が存在した時から自由は無くなる。
      これは相手が動物だろうが植物だろうが同じ事で、その意味では完全な自由は存在しようがない。
      しかしラテン系の昔の人たちは凄いですね。
      他者から負債を負っていない事を自由、約束がない事を自由とした概念したのはとても凄いと思います。
      同様の事を言えば平和もそうですが、戦争が無い状態の時を言う訳で、我々は平和や自由を思想的なものとして考えてしまいがちですが、その現実は何かの一時的な状態を指していた。
      実に現実的な解釈だったと思います。
      そしてそうした本質が見えたと言う事は、ある種ギリギリのところを生きてきたからだろうと思います。
      これが状態で有る事を認識できる人間は、一体どう言う経験をしてきたのだろう、そこを思へば唯々尊敬するしかない・・・。

      コメント、有り難うございました。

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