第二章「子供の価値観の低下」

そしてここからは日本に措ける少子化の背景だが、20世紀後半に起こったジェンダー差別の廃止、つまり一般社会に措ける男女の機会均等について、確かに日本社会でも特に教育や就業の面では男女の障壁は無くなりつつあると言って良いが、しかし外でこうして男女差別の無い社会に存在しながら、一方で既婚女性が家へ帰れば、依然として不平等性の支配から免れず、家事育児から老人介護まで押し付けられ、到底子供を産んで育てる余裕など無かったのである。
P.McDonald(マクドナルド)はこの家庭の内、外でのジェンダー間平等の非対称性が、日本や韓国の超低出生率の背景だと提言している。
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また結婚市場に措ける候補者供給不足について、西欧社会と違って日本に措ける同棲婚、婚外出産も依然その数は少なく、結果として日本に措ける出生率の問題は、現在該当する男女が結婚しているか否かがその決定要因となるが、近年の傾向として、結婚したいと望む男女の意欲はそれ程低下しているわけではないが、現実には結婚を先延ばしにする傾向が強いこと、それに見合い結婚が激減している現状があり、これらの要因が巡り巡って出生率の低下を招いている。
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お見合いと言う制度は確かにジェンダーの開放からすると、極めて家制度の影響の強いもので、対立する要件ではあったが、その一方でそれを仲介する人間が互いに結婚候補の身分や素性、または経済力やその背景、人間性に対してある程度の信用保証をし、それを担保する面も持っていた。
即ち結婚するとしても、「外れ」が少なかったのだが、これが経済的発展時期には大方の男性が経済力には問題が無く、そもそも見合いに頼らずとも自由恋愛でも「外れ」が少なくなっていった事から、見合い結婚は衰退した。
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しかし現状の経済状況の中では、例えば結構な年齢でも親に経済的依存をする「パラサイト」、「ニート」が存在し、また男性について言えば十分な所得が無く、独立して一家を構えることも出来なければ、それはそのまま結婚市場に措ける結婚予備存在とはなり得ない、つまり初めから結婚市場に措ける価値が無い存在となっているのであり、現在僅かながら見直されてきた「見合い」の制度だが、つまりは見合いにおけるメリットである信用保証と担保が無ければ、これも意味を成さない。
格好だけの、しかも誰も「外れ」に対して責任を取らない見合い制度の復活が、今ひとつ効果が上がらないのはその為である。
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更に運良く結婚したとして、合理的選択論として親が子供を持つ時、そのメリットとデメリットをあらかじめ計算しない者は少ないと思われるが、実際に私たちが未来に対する予備知識をどれだけ持ち合わせているかと言うと、それは感覚的なものでしかなく、即ち少し先の未来に対する期待感でしかない。
それゆえ少し先の未来が不透明、かつ不安定な状況では結婚、出産と言う巨大事業は一時控える傾向が出るが、この点では経済も同じ仕組みと言え、危険な時に更なるリスクを背負わない様にしようと思うのは、ごくごく普通の考え方であり自然なものだ。
だから国家が少子化社会を問題視する場合、若者の将来に対する経済的基盤の不安定化を排除する方策、つまりは経済対策がもっとも有効な少子化対策と言えるのである。
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そして最後、Gary S Becker(ベッカー)はこうも言っている。
親が子供をもうけるに当たっての合理的選択は子供から得る効用、利得と子供にかかる金銭的もしくは心理的費用との間のバランスによってそれが行動として実現化する。
即ち、所得が上昇すれば子供に十分な健康と高い教育を与え、質を高めることによって、子供の数はむしろ減少する傾向に有ると言っているのだ。
また子供を持つことで女性が貴重な時間を奪われ、自分自身の所得や人生の生きがいを逸失すると言う、「機会に対する費用」を概念するとき、女性にとって自身の自由に対する価値と、子供を産むこととは相反する命題となってきていることを指摘している。
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これはどう言うことかと言うと、簡単に言えば金で子供は買えない、金をばら撒いたところで少子化は止まらないと言っているのであり、女性のみならず社会的価値観の中で、子供を聖域としない傾向が現れ始めていると言うことだ。
そしてこれは、昨今の児童虐待や子供の保護責任放棄事件と決して無関係ではないこともまた、付け加えておかねばならないのではないかと思う・・・。
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※ 本文は2010年7月10日、yahooブログに掲載した記事を再掲載してします。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。