第一章「ネジの理論」

生物の世界で言う究極、つまりはもっとも完成された形とは「崩壊」或いは「滅亡」である。

従ってもし如何なる種かは分らないが、彼らがもっとも幸福で理想的な環境を整えたなら、そこに待っているものは生物としての終焉であり、生物は生きる為にもっとも過酷な闘いをしている時が最大の力を有している。
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この観点からすると、優しさや、寛容、そして平和がまことしやかに唱えられる社会は、実はこうしたことがもっとも衰退し、そして力のない社会と言え、人々の理想を謳歌するような表面上の形骸に対して、発生してくる事実は極めて深刻な問題が多くなってくる。
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またこれは人間の脳に限定されることではなく、およそ自然界、物理的原理としてもそうだが、全ての事柄には完全に同じと言うことが存在せず、従って如何なるものも変質は免れない。
つまり人間の考え方や思考回路はいつも同じように思えるかも知れないが、実は全く同じ思考経路で結果を導き出していることは唯一度も存在せず、必ず気が付かないほど微妙に拡大しているか、そうでなければ縮小しているのだが、縮小の場合は一挙に縮小することの方が多い。
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そして微妙に拡大していく場合、最終的に拡大の先にあるものは破綻であり、これは例えるならネジに似ている。
精密な機械のネジは、その当初は実にスムーズに回転して入って行くが、やがて少しずつ磨耗することによってネジの隙間が広がり、ある日ネジ径が違う溝にはまった時から、そのネジは本来の回転と精度を失い使い物にならなくなっていく。
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大阪市西区のワンルームマンションで、3歳と1歳の幼児が23歳の母親「下村早苗」容疑者によって置き去りにされ、2人とも餓死した事件は、確かにその本人のありように最大の責任があるが、一方でまさに前出のネジの原理と同じ思考形態を持つ人間ならでは、いや森羅万象の理(ことわり)と言うものも、その一因として考えなければならないことである。
いわんや、状況が揃えば現段階で被疑者を批難している者もまた同じ過ちを犯す、そうした恐さを知っておく必要があるだろう。
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子供が生まれた瞬間、この喜びは母親になった者でしか味わえない感激がある。
みなから祝福され、誰もがその将来に「希望」と言うものしか見えない、そんな幸せに満たされ、そしてこの子のためなら死んでも構わない・・・、とまで思うものだ。
しかしこれは明らかに適齢期の女性、今の時代であれば30歳前後だろうか、そうした年代であればこそそうなるが、下村容疑者は20歳で最初の子供を出産していたことから、その妊娠は19歳だったのではなかろうか。
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この場合はどうなるかと言うと、これは実際に20歳未満で母親となった女性たちが、出産に伴って同じ同性の女性看護士から実際に言われた言葉だが、祝福の言葉と同時に、次のような言葉もまた浴びせられたと証言している。
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「あーあ、可愛そうに、こんな若くして子供できちゃって、後悔してない?」
(17歳女児出産女性)
「ばかだね、何で避妊しなかったの」
(19歳女児出産女性)
「もうこれで遊べないよ、あんたもこれで終わりだね、でも気持ちいいことしたんだから仕方ないか・・・」
(17歳男児出産女性)
などとなっている。
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つまりここでは子供を産むことが必ずしも祝福されていない、むしろそれなりの経験をしてきた女性たちは、「若い女の期間」と子供の出産を比べた場合、「若い女の期間」を重要視している現実が存在しているのだ。
10代で意を決して出産しようとする女性たちには酷な話だったが、だがこれは偽らざる女性の真理でもある。
女性にとって子供を産む、産めることは最大の喜びであるが、その裏には最大の理不尽もまた包括している。
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江戸時代の文献に14歳の遊女の話が出てくるが、この中で貧しくて、いつしか体を売って金を稼ぐことを憶えてしまった少女が、その体を売って稼いだ僅かな金を父親に渡すのだが、父親は祭りの日にその中から更に僅かな金を少女に渡し、それで何か美味い物でも食べろと言い、これに喜んで祭りに出かけていく少女の話がある。
つまり女の心とはこうしたものであると私は思う。
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それは一方で大人の欲望も知りながら、でも若く幼い心もそこには同時に存在していくように、片方で子供が生まれれば母親としての意識も芽生えるが、女として一番美しい時期を知った時、そこに子供と自身の自由に対する憧れ、欲求との葛藤もまた生まれやすいものであり、この状況で伴侶とは離婚、親とも別居となった状態は、女性1人に、少なくとも子供に関するすべての責任が、集中していること、この重さを考えなければならないだろう。
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それでも初期、女性は子供の顔を見るたび「頑張らねば、何とかして育てなければ」そう思うに違いない。
しかし新しく知り合った同年代の男性の出現、そして彼らや同年代の同性たちとの楽しい親交が始まってくると、この女性に中に「子供を産める事の理不尽」さが少しずつ頭をもたげてくることになる。
この状態がネジ穴が少し広がった状態である。
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やがて子供を見ていると、何で私だけがこんな苦労をしなければならないのか、もし子供がいなければ私はもっと幸せになれるのではないか、そんなことを思うようになり、それまでは甘えてくる子供に感じた愛おしさが、今度は煩わしさに変わっていく。
子供は女性の欲求を満たしてはくれない、むしろ女性にとっては子供はストレスになっていくが、この状態でもし誰か他に人がいれば状況は変わってくるが、女性一人だと子供と言うストレスと付き合うか、欲望を満たすことにするかの選択は、容易に欲望を満たす方向へと転がっていく。
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これは子供を連れて再婚した場合でも同じで、新しい男を取るか、子供をとるか言う選択をせざるを得ない状況が生まれた時、女性はなかなか子供を選択して男と別れる決断がしにくい。
そこで発生してくるのが、性交渉にとっては邪魔な存在である子供に対する義父の虐待や暴力だが、これを母親は止めることが出来ず我慢していく内に、心の痛みに対する抵抗が薄れていく、つまりここでもネジ穴が広がって、これが日常茶飯事になっていくと虐待の容認、そして自身の快楽の妨害として子供の存在を考えるようになると、そこからは母親も虐待に参加していく、すなわちネジの崩壊となってしまうのである。
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                       第二章「子供は誰のものか」に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。