第二章「子供は誰のものか」

大阪の事件の場合は、この状態が更に放置された状態に近い。
下村容疑者は完全に一人だった。
このことから初期は1日くらい子供を放置しておいても死なないことが分ると、次からは2日、3日と時間が延びていったことだろう。
それは泣き叫ぶ子供を見ているくらいなら、男友達と過ごす時間が楽しいことは分っている。
下村容疑者はこうした欲望から逃れることが出来ず、いつしか分裂した自分の、明らかに非現実の自分にのめりこんでいくが、これを注意する者もいない。
.
やがてたまに戻ってみれば衰弱した子供の姿があり、これはもはやどうしようもない。
「見たくない」、下村容疑者は誰かにこの状態が見つかることを恐れ、そして部屋を密閉してまた非現実の世界へと逃げていくが、そこで彼女が思っていることは、「私は子供を殺したのではない、ただ放置しただけだ、自分で手を下していない」と言う実に勝手な理屈になるのだが、そうやって心の平静を保った彼女は、やがて子供たちが死んだ頃、自宅に戻って子供が死んでいるのを見て、一抹の悲しさと共に「ああ、やっと開放された・・・」と言う開放感も感じたことだろう。
.
そしてこれを読んでいる人は下村容疑者に対して「許し難い」と思うかも知れないが、実は彼女は遥か以前、子供を1日放置した時点から既に心の崩壊が始まっていて、子供を「見たくない」と思った時にはもう人格が破綻してしまっている。
彼女の中には「楽しい時間」だけしかその存在がなくなり、その他のあらゆる事に対してリアリティがない。
つまり子供を殺したら死体はどうしようか、近所の人に見つからないだろうか、警察に見つからないだろうか、そう言ったことすら考えることが面倒臭くなっていた。
.
リアリティは常に何らかの苦痛やストレスを持っているものであり、こうしたものが存在しない楽しい場面と言うものはリアリティがないものだ。
しかし人間の欲求は常にリアリティよりも快楽の方向に向き易いし、状況が苦しい者、そして孤独な者ほど、リアリティのない快楽に堕ちやすい。
.
またここで考えなければならないのは、確かに子供を事実上「未必の故意」即ち死ぬことが分っていて放置し、殺害せしめた下村容疑者は十分責められるに値しよう。
しかし、こうしたことを思う者は日本で私1人かも知れないが、私は下村容疑者だけが悪い様には思えない。
彼女は23歳、通常なら遊びたい盛りであり、青春を謳歌している年頃だ。
にも拘らず、子供を2人を抱えて1人で頑張って行かねばならなかった。
.
子供とは一体誰のものだったのだろうか。
そして子供に関する責任は産んだ女性だけが、その責任の一切を負わねばならないことなのだろうか。
下村容疑者にしても分かれたとは言え、子供の父親は存在し、その祖父母も存在するだろう。
下村容疑者自身の父母にとっても下村容疑者の子供は孫だったはずだ。
そして下村容疑者一人では子供は出来なかったはずであり、この点で言えば子供に関しては、少なくとも多くの人間が共同責任を負っていたはずである。
.
にも拘らず産んだと言う事実だけで、下村容疑者は、本当はみなで少しずつ責任を負担しなければならなかったものを、1人で背負い込んでいなかっただろうか、みんな少しずつ負担しなければならないことを、下村容疑者に押し付けてはいなかったのだろうか。
そしてついに破綻してしまった彼女を見て「人間ではない」「残虐だ」と言いながら、その実言うておるその本人が一番罪深いことになってはいないのだろうか・・・。
.
日本の年金制度は確実に従来まで存在した「家」制度を壊し、日本を核家族化に追い込んだ。
つまり年金制度は高齢者にお金が支給されることから、それまでの様に子供の世話にならずに済む高齢者のありようを作り、ここに従来であれば、年を取ったら子供の世話にならなければならなかったものが、その必要がなくなり、親子が別所帯で暮らす形態を促進させた。
.
その結果従来であれば3世代が同居し、この中で共同で子供に対する責任を担保し、また女性は子供を産み育てることのみ集中して、みながそれ以外のことを負担する仕組みになっていたが、日本の年金制度はこの部分を壊し、結局子供と孫の距離を遠ざけてしまい、その分責任が形として見えにくい社会となってしまった。
.
親子同居とはその言葉の理想的な響きに比して現実は厳しく、不自由なものだ。
そこから高齢者で有る親が少しだけ開放された、また子供も同じく少しだけ自由になった。
自由と言うことはそれだけ我がままな状態になったと言うことでもある。
つまりは社会がみんな少しずつ自由になって、自己中心的になって行ったということであり、その孫の世代が下村容疑者の世代とも言え、ここに家族とは言っても従来よりは少しずつ距離を持った家族、互いに干渉の度合いが同居より薄い家族の集合体、そう僅かに関係の稀薄な家族構成を主とする社会が発生してきたのである。
.
また男女同権と言いながら、生物学的に女性しか子供を産めないと言う事実は、どうしても完全な男女平等などありえないことを示しているのであり、ここを綺麗な言葉で包んで誤魔化したところで、体裁よく平等を取り繕ってみたところで、実際に子供が出来てみればその瞬間から矛盾は噴出し、その綺麗な言葉の下で、こうして下村容疑者のような現実が現れるのである。
.
確かに年をとって子供の世話にならずに済む社会とは豊かなものであり、それは一つの理想でもある。
だがそれは片方で子供と言うものに対する従来の価値観の低下、若しくは崩壊をも意味し、それに加えて女性の社会進出の促進は、女性の「女」としての意味を軽減させ、より人間的な意味を持たせたが、そのこともまた女性にとって、子供に対する価値観を低下させる要因となって行った。
.
更にはこの長期に渡る日本経済の沈滞であり、ここに頑張っても報われない社会が出現し、それは経済的な意味で男性の価値を下げてしまった。
即ち経済的に成立しない若い男性が増加し、そこに開放されてきた若い女性が組み合わさると、そこで起こってくるものは「破綻」なのだが、これは「家」と言う制度が生きていれば「破綻」しても子供は救済できたが、それが今はない。
つまり親の破綻によって子供は「邪魔者」にしかならない社会が出てくるのである。
.
そしてもう一つ、実は子供が邪魔者になりやすい社会は、高齢者も邪魔者になりやすい社会であることを覚えておくと良いだろう。
即ち核家族化による家族の心の分離は、すべての年代に対して均等に起こってくるものだからである。
.
恐らくこの日本で下村容疑者を擁護する者はいないだろう。
そして彼女が犯した罪は人間として許されるものではない。
だが私は世の中でたった1人かも知れないが、彼女にも同情すべきところがある、そう主張しておこうか・・・・。
.
子供は誰のものでもない、我々は天から子供を預からせて頂いていると言う事を忘れてはならない。
.
本文は2010年8月7日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。