「非合理性の造形力」

物には例えば同じ物、同じ道具でも重さの違いが有り、この重さとは重量では無く見た目の重さを言い、その因するところは「非合理性」の含み具合いと言うことになろうか・・・。

狭義の基本的な酒器を指した場合、それが伝統的な形式を鑑みて作られた物で有っても、明治時代に作られた物と平成の時代に作られた物では、同じ形で有っても相違が出るが、この原因はひとえに「人の数」の差である。

つまり、その時代その環境に何人の人がいたか、どれだけの家族が平均の家族数だったかによって物は見た目の重さを違え、これはあらゆる伝統工芸、工業製品を問わず同じ傾向を持つ。

7人が住む家族で使う一般什器(雑貨器)と2人家族で使う一般什器は、基本的に市販品で有れば同じものを使う。

7人家族だったとしても茶碗の大きさが倍になっている事は無く、大変な富豪で有ったとしてもそれは変わらない。

しかし同じものを2年後に比較してみれば、7人家族の家で使用されていた茶碗は少し重く感じ、2人家族が使っていた茶碗は僅かに軽く感じる。

面白いものだが、物の持つ重厚さとはある種の傷み具合で有ったり、汚れ具合であると言う事になり、これを能面などの製作過程で言うなら、美しく白く磨きあげた面(おもて)にわざと煤けた感じの汚れを拭く、(時代がけ)の作業に見ることができる。

また冒頭に出てきた「非合理」だが、これもまた汚れ具合と同じものであり、明治時代の生活環境では今の時代なら電気や機械、あらゆる家電製品が行なっている作業を人が行なっている訳であり、ここでただ廊下を歩くに付いても、その廊下がその美しさに保たれている事に要する人的労力は平成時代より明治時代の方が遥かに大きい。

従ってそこで使われる器物は多くの人間の労力が携わる事が前提、或いは多くの人間が携わる事が一般的な社会で作られることになり、ここで同じ様式の同じ伝統的な形であったとしても、僅かに曲面が変わったり、絵柄が変化してきたりと言う事が出てくる事から、その事が物の見た目の重さに影響してくるのである。

そして多くの人間が携わると言う事は、その人間が生きている事に付いて必要とされるあらゆる物や人が背後に控えていると言う事で有り、それは姿なくとも物の形に重さを加えている諸因と言え、ここ平成に至り明治時代には人的労力だったものが機械や電気に変換された現実は、かつての人的労力を「非合理」、或いは「無駄」と言う形にしてしまい、これが失われた分だけ平成時代の物は軽く見える。

一般的に「合理性」とは何かに対する比較状態で有り、ここに絶対性は無い。

それゆえ「合理性」の本質は時間やその時間を金銭に換算した場合の事を指すので有って、一方では何かを失った状態とも言え、実は人間の感情はこうして失ったものを求めてさまよっている部分が有る。

誠意、心、気持ちとは何だろうかと考えるとき、人々は皆で「合理性」を唱えながら、その根拠を合理性の対極にある「誠意」や「心」、「気持ち」と言った「非合理性」に求めているのであり、これらは冒頭の明治時代の人的労力など、形無きものによってしか、尚且つそれをそれと実感できないものの中にしか存在し得ないものである。

にも拘らず人間はそれを形として求める為、現代社会は本来形無きものを言葉で表そうとして、より巧みな言葉をして物の重さを、或いは権威をして物の重さにしようとしているが、基本的に物の本質的重みは言葉や説明では担保されない。

また太平洋戦争後の世界は物の重みを映像によって表現しようとしたが、映像の表現はその映像が存在するだけに言葉より更に多くのものを合理化してしまった。
映像は言葉よりも物の重みを軽くしてしまったのである。

「物」はその時代を映す鏡のようなものであり、ある種その時代の象徴とも言え、これはあらゆる芸術作品、工業生産品、食品や著作物も同じである。

社会が混乱し意味ある言葉が全て失われた今日、物の形もまた不安定な状態になって行きつつある。

世の中にそれほど多くの優れた形は存在していない。

造形や芸術は常に人間の意識と同じように比較と相対、従属の循環に有って、このサイクルの中で長く留まる物の形こそ良い形と言えるが、社会が不安定になり、目まぐるしく変化していると、芸術や物の形も変化が激しく、そこに存在するものは比較上の映像的な変化にしか過ぎなくなり、殆どの物が実情の生活の中では必要のない物となっていく。

デフレーションの原因、その最大の原因は金融政策に有るが、その一方でものが売れない事を「必要が無い物を作っている」ところに求める者は少なく、これを伝統や文化、或いは付加価値と考える事は怠惰である。

またこれまでの時代は「時間」を価値と考えられてきたが、その時間の為に人間は更に時間に追われ、今や家族が語り合ったり、夫婦がときには2人だけの場を持つことすらままなら無くなってしまった。

飯を炊くのにかまどで火を起こし、水を汲みに行っていた時間を

無駄だったと思うか・・・。

客の対応、苦情処理、または打ち合わせに会議、それらは生産だろうか・・・。

まだ少し先の未来かも知れないが、世界は時間の概念を少し考え直さなければならない時期、或いは釜戸で飯を炊く事が現在やっている仕事より大きな価値観になっていくような、資本主義の次に来る概念の扉の前に立っているのではないだろうか。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 図書館で一年待ちのトマ・ピケティの『21世紀の資本』が番が回ってきて、先日やっと読めました。面白かったです。

    テレビだと、簡単クッキング~スローライフまで色々ありますが、どれも今一スッキリ来ません、人のことを言えた義理じゃありませんが、何か浅薄なんですよね。

    竈の前で、火を焚き、ときどき煙に咽せながら、火の音を聞いて、火加減を見て、羽釜の蓋から上がる蒸気を見たり、匂いを嗅いだりしながら・・ボンヤリ色んな事を考えながら、飯を炊く・・良いですね・・現実は土間も無いですが。

    BBQはそれはそれで良いのですが、ハイテンションであり、竈で飯を炊くとは対局のものという感じでしょうか。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      例えば自殺現場などへ行くと、そこで何が有ったか全く知らない人でも「何か通常ではない」ものを感じる場合が殆どだと言われています。
      同じようにあらゆる物にはそれに関わった人の情念の重さと言うものが有るのかも知れません。また環境に拠っても違ってきて、同じ一つのおにぎりでも野良仕事の合間に食べる昼食のおにぎりと、300gのステーキを食べた後のおにぎりでは味や有り難味が違う。結果として他者の情念の重みを感じると言う事は、自身もまたそれを感じるだけの手間をかけて自分を生きているかと言う事なのだろうと思います。
      今の時代は300gのステーキを食べて、更におにぎりも美味しく食べようと言う、そんな矛盾を抱えているような気がしますが、一方唯苦労すれば良いと言うような劣性依存で有ってもならない。その当代に従った合理性を大切にしながら、自身が生きる努力を欠かさない事が大切なような、そんな気がします。

      コメント、有り難うございました。

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