「主と従」

神社でお供え物を乗せる際に使用する「三方」(さんぼう)などは、その上部盆状の構造が縁よりも底の板が外に出る構造になり、その下に高い台が付いているが、こうした構造は元々上部の盆状の構造と高い台が分離して使われていたものと言う事が出来る。

現代社会では三方は全て一体になっているが、その昔は盆を台に乗せて使われていたものと考えられ、こうした意味では物の構造と言うのは漢字の発想と極めて近い事がわかるが、もう一つには盆の構造として何故底板が縁より外に出ているかと言う事である。

構造強度として底板を縁の4枚の板で囲んだ構造の方が強度は高く、製造も容易であるにも拘らず、わざわざ底板を縁より外に出すのは一体どう言う理由が有るのかを考えてみるなら、そこに「三方」の本質が「板」で有る事が見えてくる。

つまり三方は基本的に底板となっている「板」に起源が有り、それに縁が付き台が付いて、やがて縁や台が装飾的に発展したものだったのである。

始めは唯の板だったが、それでは何かを乗せると落ち易く、そこで板の上に簡単な縁を置き、やがてその縁が固定されて使われるようになり、そして台にこうした縁の付いた板を乗せて使うようになり、その台もいつしか利便性から固定されるようになった。

あの三方の一番重要な部分とは板の部分な訳で、その他は本質的には付属なのである。

物の形にはこうして起源が有る場合、時代を経ると本質部分が一番面積が少なくなり、また装飾も施されない事になるので、その形の解釈は曖昧になるが、一方装飾も施す事が出来ないと言う意味では、その部分がその形の本質で有る事を証明してもいると言う事になる。

そしてこうしたお盆の形で有り乍、縁よりも底板が出ている構造の物は、全て三方と同じように神道の儀式に起源を持ち、この事は仏事茶道用具に措いても同じで、形は盆で有り乍それぞれに用途ごとの名称が付加されている。

折敷(おりしき)、茶道の「ふちだか」、寺の三方、掛盤(かけばん・大名膳)等はどんな素晴らしい装飾が施されていようと、その基本は一枚の板を起源とし、この起源を尊重する事の重要性は、合理的強度の考え方を超越したものである。

縄文時代と弥生時代では日本の文化が全く異なった変化を示し、その原因は朝鮮半島渡来の文化形成であり、ここに縄文時代に存在した日本の文化はことごとく失われたが、神道などでは土着文化が新文化に吸収される形で今に残っていると言われている。

三方や折敷になどに見る板に対する考え方は、若干朝鮮半島渡来の考え方とは異なる思想が感じられる。

もしかしたら三方の底板の思想は縄文文化を今に残す足跡なのかも知れない・・・。

 

もしどこかで底板が縁よりも数ミリでも出ている盆を見かけたら、それを盆と呼称してはいけない。

解らなかったら、それを出してくれた人に尋ねると良い。

この場合、尋ねる事は恥ずかしい事ではなく、むしろ尋ねる人は「知る人」となるのである。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 地鎮祭で三方が上下分離していて、何て不安定なんだろう、と無知から思っていて、仕舞う都合からだろうからかしらとも思っていましたが(笑い)、根本的発展に依拠していたようですね。
    何処でも旅行をすれば、市場やスーパーに行って、その地の特産、若しくは地元じゃ、普通なのに、少しは慣れると、全くないか、価値が変わっているものを、探す事が多いですが、知識が無いと、目の前に展開していても、気づかない事が、多く有ります。
    今は、ネットその他で、事前に知る機会は増えましたが、当然の事は、記録されないので、難しい事が多いです。

    その地で暫く暮らすと、見えてくる事も多いでしょうが、ホテルにいては、「まろうど」ですから、機会は少ないですね。
    地域研究をしている人は、家族連れで一家を構えるか、その地の人の離れに住めば、それなりに見えてくるものが多いとお思います。ジャーナリストも通訳連れて、ホテルから町を彷徨くだけじゃ駄目でしょう(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      バブルが崩壊して経済が壊れ、日本人はあらゆる価値観を失った中で、次の価値観としてより小さなもの、劣化こそが真実かも知れないと言う「価値反転性の競合」状態に陥っていますが、こうした中の情報はやはり枝葉の方に主眼が移りやすく、事の本質を考えない為、本質が失われた中で机上の空論が多くなり、この机上の空論に怯えて次の空論が発生してくるような傾向が有ると思います。
      本を一冊読んでいても昭和30年、40年代の著書はどんな陳腐なものでも、そこに筆者の熱い思いや情熱が感じられますが、今のお笑い芸人のたかだか30年ほどの自叙伝や村上春樹などの著書は全く「意思」が感じられない。「何の為に」と言う主が失われた中で枝葉ばかりの話が連続していくから益々社会が混乱し、その混乱している事が「常」になってしまっている気がします。
      嫌われる事を覚悟で古めかしい事も言っておかねば、この先が危うい、失われても再生できないところまで行ってしまう事が私は恐ろしい・・・。

      コメント、有り難うございました。

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