「自分の範囲」

人はどこからどこまで自分のもので、どこからが「他」になるのだろうか・・・。

およそ「他」の動植物を捕獲し、それを食べていかなければ生命を維持できない人類に取って、生きると言う意味であれば、眼前に広がる光景の全ては自分のものとも成り得るが、同時に人類は自分ひとりではなく、その意味では全てのものは共同所有となるのが人類社会の原則と言える。

つまりここでは全てが自分のものであって、自分の物ではないと言う考え方が発生してくるが、その中でも緊急性を持つものには、それが優遇されることが文明社会のあり方と言うものに違いない。

しかし人類社会は同じ人類同士の関係で、「限界」を定めてはこれなかった。

すなわち「生きる」と言う意味において、どこまでが許されるかの話し合いを避けてきた経緯があり、その一方で緊急性やその需要の多さから、こうした議論は常に現実に押されて成り行き上の容認となり、また人々はこれに口をつぐんできた。

古代ギリシャ彫刻のレリーフには、医師が奴隷の足を切り取り、それを兵士、おそらく将軍だと思うが、彼が戦場で失った片足の代わりに縫い付ける場面がある。

おそらくこの術式ではその後、この奴隷の足は拒絶反応を起こし、結局縫いつけた先は壊死し、その断面は化膿して大変なことになっただろうが、それでもここで注目すべきことは、この時代でも「他」の人間の体を使って自身の命を長らえようとする、また欠損した部分を補完して生き残ろうとする考え方が存在していたことだ。

「他」の人間を使って自身の命を長らえようとする発想は、実は意外に古くから存在し、広義では、例えば神殿の造営や飢饉の際の雨乞いに捧げられる「生贄」などもその概念には入ってくるし、同じく飢饉などで発生する「食人」などもその範囲だろう。

しかしこれらとギリシャ彫刻のレリーフとの決定的な差は、人の体を使って自身が生きようとする発想だ。

ここで問題となってくるのは、もし眼前に人の死体があり、飢えた他の人間がこの死体を食べて飢えをしのぐことと、この死体から臓器を取り出して、それを自分に移植して、自分が生きながらえる事の倫理的罪悪感の相違とでも言おうか、その差である。

キリスト教は古くからその復活思想の影響もあり、ことに人間の体やその死体のありようにまで拘ったが、それは体を失うと復活ができないと考えられたからだ。

それゆえ、現在でもキリスト教原理主義系の信者たちには、基本的には「輸血」であっても「他」が自分の中に入ることを拒絶する者が出てくる。

しかしその一方で臓器移植に関して少なくとも日本よりは寛容で、歴史を持っているのが西洋文明でもある。

日本文化は古来より体を二次的なものと考えてきた経緯があり、そこでは本質は霊魂にあって、体は器にしか過ぎなかったが、こうした背景を考えるなら、日本にこそ「臓器移植」に対する寛容性が存在しそうなもののように思えるが、実は日本ほど死体に対しての冒涜を忌避する民族も少ないのである。

日本では古来から、確かに生贄や食人の歴史は存在した時代がある。

しかし平安や鎌倉時代でも、例えば死に及んで仏像と自分の指を糸で繋ぎ、それで来世の救いを祈願した貴族はいても、敵兵や身分卑しき者から体の一部を切り取って、それで自分が生き長らえようと考えた者はいなかった。

だから儒教や仏教はその思想の中で、暗に「自分の範囲」を、「生まれた時に両親からもらってきたもの」までとすることを決めていたとも言えるのである。

だが方や「体」に拘った欧米文明ではその宗教的意識のコントラストの強さから、身分の隔たりが日本より大きかった面が存在し、それはやがて宗教的な支配が強かった中世社会への反動として「合理的、科学的精神」への信奉へと推移して行った結果、物事を細かく明文化して行く傾向が生まれ、このことが全てのモラルや倫理を狭義化、軽薄化してしまった。

それゆえ、今日の臓器移植に対する日本民族と欧米の臓器移植に対する考え方は、近いようで決定的な相違点を持つに至っている。

日本文化は思想的に欧米よりは臓器移植に閉鎖的な面が存在し、このことの是非はどちらかの考え方に正義があるようなものではない。

また現実に臓器移植が可能になった現代社会に措いては、宗教的道徳観やモラルと言った見地だけで臓器移植を捉えることができなくなり、ここで臓器移植に賛同するか否かは、その人間に与えられた状況に対する考え方であり、一般的に臓器移植を必要とする者、若しくはそれに関係する者にとっての臓器移植の考え方と、そうではない健常者、若しくは多額の費用のかかる臓器移植には手が届かない者、また自身らの為に動いてくれるような組織との付き合いがない者との考え方の差が、臓器移植に対する考え方の対立要諦となっている。

話をもう少し絞ってみようか、もし自分の子供が先天性の臓器疾患だった場合、これが臓器移植によって助かるとしたとき、高額な医療費がかかる臓器移植の費用がない者は、ここで子供の命を諦めねばならなくなる。

だが片方で経済的に余裕がある者は、この臓器移植を子供に施すことが可能であり、また経済的な余裕がなくても、知り合いなどに運動化がいて、手術費用を寄付で集めて貰えるような環境で在れば、これも臓器移植を受けることができるだろう。

そして金銭が理由で子供の命が助からなかった者はどう思うだろうか。

金で人の命に格差が付いたことを感じ、また通常子供に疾患のない一般の親の感覚としても、高額な医療費を払う余裕のないことが予想される者は、基本的にどこかで金銭によって人の命に格差が発生することを恐れることから、こうした者たちは臓器移植そのものに躊躇して行き、金銭的に何とかなる者たちは当然臓器移植を望むことになる。

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「自分の範囲」

    諸行無常

    栄光のアメリカ合衆国の初代大統領ワシントンは、膨大な奴隷を相続して、広大な農業経営をしていた~~♪
    或る時、歯が欠けて、新しい歯が欲しくて、ピッタリ合いそうな奴隷の歯を引っこ抜いて、勿論当時麻酔術はなかった、繋いでしばらく使えるようにした。
    そんな国の成れの果てに、民主主義だの人権だのって言う話は聞きたくない。
    支那もそんな話でねじ込まれたら、ワシントンの話でも、そこの奴隷の子孫にワシントン由来のDNAを持っているものが多数いることを、全人代で発表し、新華社から世界に配信すればよい(笑い)

    利他性や惻隠の情のないものに、人間社会の在り方について説教されたくないが、核爆弾の数を沢山持っている国の論理が基準になっていて好き放題しているが、日本も世界第三のGDPに見合う核武装をして、日本風の歴史ある人道主義を世界に知らしめれば良い(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      新年、開けましておめでとうございます。
      今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

      この当時脳幹死の議論が為されていたため、この記事を書いたと思いますが、どこからどこまでを自分、どこからが他は比較的簡単に決まっています。
      体が受け付けないものは「他」は生物学、医学的見地から明白になっているだろうと思いますが、ここが最近曖昧になりつつ有る。
      培養臓器が進めば部品取り人間の培養が始まる。
      それらは全く生体と同じで在りながら、部品取りと言う運命ですし、結婚できない男に出産用の女体が売られる、などの事が平気で起こって来そうです。
      そして出来たら、そう言うことが発生する社会で生きていたくないものだと思います

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。