「死の概念の多重性」

そしてここに「人の死」に対する概念と言うものが加わってくる。

生きた人間を殺して、誰かの命を救うことは現在の段階ではどの国家もこれを容認していない。

従って実情はどうあれ、死体からしか臓器を取ることは許されないが、この死体と言う定義をめぐって日本と他の諸外国には大きな見解の相違があり、また世界中の個人によっても見解の相違があるが、欧米では一定の定義を持っているものの、日本は明確に死体の定義を持っていない。

その中で「脳死」を人の死と定義しないまま、2009年7月「臓器移植法」の改正案が国会を通過し、その施行が2010年1月17日から始まったが、この改正の重要な骨子は、それまで臓器を第三者に提供する場合、「本人の事前承認」を必要としたものが、親族の同意で臓器提供ができるようになったことと、これまでは禁止されていた15歳以下の者からの臓器提供も、親の同意があれば可能となり、また15歳以下の子供に対しても臓器移植が可能となる道を開いたことだ。

しかしこの法案が通過した経緯には甚だ疑問な点も多かった。

まず審議に要した時間の短さであり、人の死と言う重大な定義を審議するにはあまりにも性急であったことから、単純に欧米の価値観で「脳死を人の死」とすることを容認し、しかも現実にはこれが人の死だとは決定されなかった曖昧さがあり、この部分を脳死判定会に丸投げした形となったことである。

実は脳死と言う概念は1950年代後半から発達してきた人工呼吸器の出現にその端を発していて、人工呼吸器や延命装置が発達する以前は、呼吸の停止イコール脳死となるために、死亡の確定が容易だったものが、人工呼吸器の普及で、脳死と心停止や呼吸停止が分離されたことから始まってきたパラドックスだった。

従って人工呼吸器が開発された初期の段階での脳死患者は、「超昏睡状態」「不可逆昏睡状態」などと呼ばれ、生きていると定義されていた。

また脳死には2種類あって、脳機能が全て停止する「全脳死」と、脳幹が不可逆性変化を受けて自発呼吸ができなくなる、また脳幹反射が失われた状態になる、いわゆる「脳幹死」(brainstem death)があるが、脳幹死の場合は、脳幹が一次的損傷を受けても短時間は大脳の血液循環が存在することから、患者はたとえ外に何かを表現できなくても感情などを有している場合が考えられた。

この「脳幹死」を提唱したのは1983年C・パリスによるもので、これによって脳幹の損傷が可逆的か不可逆的、つまり回復するか、しないか、と言うことにも注目しなければならないとして議論になったが、その後欧米の脳死の概念は、こうした脳幹死を含めて全て「脳死」とする方向に動きつつあり、イギリスなどはすでに脳幹死も「脳死」と定義付けているが、日本の厚生省の脳死判定基準はこの「脳幹死」を脳死としていない。

また実際に脳死状態の患者を見たことがある人はいるだろうか、人工呼吸器をつけてはいるものの、その胸は明らかに呼吸をしていることを示すように上下に運動し、体温も温かく、まるでただ眠っているようにしか見えない。

こうした脳死患者を見るに付け、私などは何をして「死」と呼ぶのかが明確には分からず、この患者から臓器を取り出してしまえば、患者の呼吸は確かに止まってしまう事になるのである。

そこには殺人とまで行かなくても、何がしか大きな罪悪感が存在せざるを得ない。

そしてこれはアメリカでの統計だが、通常人間が脳死すると一週間以内に心肺停止になるとされているが、極まれに30日以上生き続けた例があり、その最長記録は脳死状態から21年間も生き続けた例もある。

また若年者の場合は脳死から2年後に回復し、意識を取り戻した症例も存在するが、これらのことを鑑みるに、またこれも同じくアメリカの脳神経学者A・H・ロッパー博士の報告だが、脳死患者が医師の見ている前で両手を上げ、その次に祈るようにして胸に手を当てて、そしてまた手を元の位置に戻す動作を見せたことがあり、これと同じ現象はヨーロッパや日本でも確認されている。

ロッパー博士はこの現象に対して「脊髄自動反射」、つまり昆虫などが死んでも、一定の部分を押せばその手足が動く条件反射と同じものとし、こうした現象は患者の家族には見せないようにと、他の医師に注意しているが、そもそも第三者がどこも圧迫しないのにこうした運動があることは、少なからず脳死が人の死であることに、疑問を抱かせる材料となるであろう事は否定できない。

ちなみに脳死状態から21年間も生き続けた患者の症例だが、解剖された結果、この患者の脳は完全に死滅していた。

このことから考えられることは、人間には「脳死」と「体の死」と言う2つの「死」の概念があることではないだろうか。

2009年7月に改正された日本の臓器移植改正法、これによって2010年には6例もの脳死判定が成され、そのいずれも生前本人の意思確認が成されていない状態で、家族の同意のみで患者から臓器が摘出され、そしてこれらの患者は死亡し、誰かの命は助かったが、これに対して当事者ではない私が論評することは控えるが、例え明日死んでいく命も、今日生まれた命も等しく尊い事を思う・・・。

またこれは少し以前の統計ではあるが、2005年の段階で脳死を人の死とすることに賛成かと言う、読売新聞社の全国世論調査では一般国民の59%がこれを是としたが、同じ調査を、こちらは厚生省が医療関係者に対して行った結果は、38%しか是とする者がいなかった。

つまりここでは医療関係者、医療従事者ほど、脳死を人の死とすることに抵抗があることを示しているが、この差はどこから出てきているかと言えば、ひとえに脳死状態の患者を普段見る機会が有るか、そうではないかの差と言うことになるのかも知れない・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「死の概念の多重性」

    諸法無我

    他人が遣れば、人倫に悖る不倫行為で、自分が遣れば、ロマンスで、自分の奥さんが遣れば、言語道断だったり、知らぬは亭主ばかりなりの幸せ者だったりの多様性~~♪
    昔、名画座で見た「眠れぬ夜のために」は面白かった。

    「賞味期限」が迫り来る弁当の値札を変えて、安価にして、購買を喚起し、資源の無駄遣いを軽減することは、良いことだろうが・・

    死にかかっている人から、まだ元気な臓器を取って、元気だが、或る臓器が風前の灯だからと言って、取った臓器を移植することと弁当を同列に論じるのは、自分は好みではない。
    自分の親族、特に子供だったら、喜んで提供するが・・金で他人の臓器を買う連中が、世界中にいる。特に支那では年間千数百の死刑囚から「頂いた」(笑い)10倍以上の臓器移植が行われいる、らしい。インドも然り、多分日本からも相当数が渡って便宜を受けている。

    単純な結論は、臓器移植禁止、些事はここでは議論しきれない。

    それまでして生きたい奴は多分、ロクデナシ(笑い)。もしかしたら、GAFAの大金持ちは目論んでるかも(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      どこまで生きていて、どこからが死んでいるかと言う話は物理的な距離の中に無限の距離が存在するような話に同じで、中々難しいですね。
      また究極的に言えば、自分がどんな状態まで生きたいか、どこから死にたいかと言う事でも有るかも知れません。
      元々体は脳機能に関係なく予め「生きる」ですから、これに従えば脳死は「死」にはならない。
      自立呼吸を前提とするなら、輸血などはどうすると言う話でも有ります。
      麻生大臣が90歳になって人工透析の費用が云々は、余りも厳しい話ではありますが、現実でも有る。
      人間やることは「出来るところ」「出来る時」はそれを理想として、現実に出来なくなった時は変化していくものなのだろうと思います。
      そして議論でどうにかなる話ではないかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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