「震災の記録」

阪神淡路大震災から25年、地震の資料を集め始めて既に45年の歳月が過ぎ去ったが、そこで思う事は、日本の防災意識に関する危うさかも知れない。

それらしくお利口そうになったが、現実には何にも役に立たない。

むしろ40年前より悪くなっているような気がする。

地震の資料は、古くは公家や武士、或いは僧侶など墨と筆が手に入り、文字を書ける人間に拠って記録された。

それゆえ、どこかでは浮世離れした独特の世界観に拠る記録が多いが、これが江戸時代になると、商家などでも体験的記録が為されるようになって行く。

そしてその時の意識がこうだ・・・。

「この事を書き記して、後世に伝え置く」

安政年間の関東大震災に際し、地震の前に井戸水の水位が変化した事を書き記した、この商家の主が末文に記した思いは、「未来の人」に向けたものだった。

また1923年の関東大震災時には、当時の文部省が「大日本地震資料」を編纂し、この中では民間の地震前の兆候報告なども記載されているが、怪光現象、事前の地鳴り現象、気象的変化までもが克明に記録されている。

明治の東京帝国大学(現在の東京大学)では関谷清景教授が、雉の鳴き声と地震の関係について、実際に雉を飼育して関連性を研究し資料に残しているし、1923年の関東大震災時には、やはり東京帝国大学の中村左衛門太郎教授が、井戸水の濁りと異臭騒ぎに対して調査をし、それを記録している。

現在の東京大学教授は、独自の力学的理論は語っても、こうした庶民が現実に抱いている疑問に対して答えているだろうか・・・。

権威を振りかざした自身主張の正当性だけを主眼にしていては、江戸末期の商家の主の意識に及ばないどころか、未来の人の道を誤らせるのではないだろうか・・・。

さらに時代は下り、第二次世界大戦後でも、様々な研究機関や民間研究者が大地震前の前兆現象記録を取ったり、アンケートを実施したりしているが、この傾向が一挙に方針転換して行ったのが、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災だった。

この震災で神戸市は初めて記者発表と言う、個別取材を廃した記事提供方式を採用し、ここから日本の報道取材体制がサラリーマン化して行ったのだが、それ以外にもこの地震は戦後日本が他者の事を考えられる余裕が出るようになって、初めての大きな地震災害だった事から、民心の情緒化が顕著になって行った背景を持つ。

バブル経済崩壊に拠って彷徨った人心は災害による結束にすがる傾向を持ち、ここでは過剰とも思えるメンタル重視の傾向が現れ、以後震災の度にこれが繰り返されることになった。

およそ人の死に上下はなく、自然死、事故死、自殺、病死、災害に拠る死も、どれもが等しく尊厳を持つ。

しかしバブル経済崩壊に拠って自信を失った日本は、災害で結束する事で皆が集まれる場を得たようなものだった。

私にすれば、餓死した人の事は省みられず、震災での死者のみがクロースアップされて行く報道に嫌悪感すら感じていた。

神戸ルミナリエに見る災害の「祭化」、人を呼ぶ事を目的とする形は、どう考えても死者を冒涜する思想と背景しか感じられず、以後人口減少が急激に始まっていく日本社会は、災害以前に急速な経済収縮が始まっているにも拘わらず、「復興」と言う停止した状態の仮想経済体制を目指すことから、現実には下がり続ける地方経済の現実に追いつかず、街並みは綺麗になったが人がいなくなる「幽霊復興」となって行った。

地震の記録も阪神淡路大震災以降、不安定化した社会に拠って、科学的根拠と法的責任の重要性偏重に傾き、前兆現象のアンケートすら取る者がいなくなった。

例えアンケートが取られても、今の状態とメンタルだけになり、「この悲惨な災害を後世に伝える」だけになってしまい、安政年間に商家の主が残したような「未来の人」への思いはなくなったのである。

もし私が今大きな地震災害から逃れらないとしたら、何を考えるだろうか。

きっと子供や妻や、親の事を考えるだろう。

彼らが生き残ってくれる事を考えるだろうし、これから先に生まれてくる命、今生きている若い命を考えるだろう。

彼らが将来同じ災害に遭遇した時、それを避けられるように何か一つでも残したいと思うのではないか・・・。

決して皆で集まって悲しんでくれたり、祈ってくれる事を望まないと思う。

それより、残った人達が幸せに暮らしてくれる事を望むだろう。

災害を自身の心の糧にしてはならないし、ましてや祭りにして悲しみの中に自分を甘やかせる事は許されない。

今の日本は自分たちの事しか考えていない。

貧しい中でも、激動する時代の中でも「未来の人」を考えられた安政年間の商家の主のスタンスは偉大だと思う。

少なくとも私は、震災の記録を「悲しみの記録」にはしたくない。

いつか未来に措いて、だれか1人でもそれに拠って助かる人間が出る事を信じて、記録としたいと思う。

私の震災の記録は「未来への希望」でありたいと思っている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 全く同感ですなぁ~~♪

    問題が重層多岐に渉る故、簡便に三県境ならぬ、3観点(笑い)より少しだけ記します~~♪

    類似の問題が複数ある時は、自分の利害に関係ある順に関心が有り、策を講じるのであって、問題の大きさは関係がない~本邦に死亡者が出ている訳でもない武漢の肺炎は連日、大報道だが、毎日約1万人の幼児が飢餓~下痢などで死ぬことは如何でも良い。桜を見る会:予算審議も然り。

    災害・事故の犠牲者を追悼することはある意味礼儀だが、例えば道路の拡張・街の強靭化など、反対住民が居ることについては触れないが如く、又、慰霊塔に詣でない、死んだ子の年を数えない人は、冷遇され、未来の人への考慮などは、個人・一代限りで、時間と共に、「記憶薄れ症」が蔓延する。

    7~8年前、濃尾平野の輪中堤を切ったところを見に行って、途上で、薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した、「宝暦治水事件」の碑を発見したのであるが・・・その何年か前に、青森県から宮城県に至る三陸海岸各地に約200基が有ると言われる津波記念碑を幾つか見るプータロー旅を計画していたが・・実行する前に、東日本大震災が来て、今や行く事ならず。

    某所に有る、大津浪記念碑:
     『高き住居(すまい)は児孫(こまご)の和楽(わらく)想へ(おもえ)惨禍(さんか)の大津浪(おおつなみ)、此処(ここ)より下に 家を建てるな。
     明治二十九年にも、昭和八年にも津波は此処まで来て部落は全滅し、生存者、僅かに 前に二人後ろに四人のみ 幾歳(いくとせ) 経る(へる)とも要心あれ。』

    実は我が郷里の季節漁獲である「ハタハタ」も江戸時代から好・不漁を繰り返しており、永きに渡った時は、神頼みが行われ「大漁祈願」の碑が建てられた。高校生の頃、一人で海岸線をうろついてその一つを発見した。

    結論じゃなく極論(笑い):人は自己の経験からも歴史からも、全くじゃないが、殆ど(笑い)学ぶことなく、バカを繰り返す・・・朝鮮で1880年代からの大院君~高宗~閔妃:征韓論:伊藤博文~李鴻章:清朝~袁世凱:日本:ロシア~日清戦争~日露戦争~朝鮮の得意の迷走(独自外交?)・・ついでに大東亜戦争・・文大統領の政策:対立勢力の思惑~デジャヴ~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      東日本大震災では「絆」がキーワードでしたが、この言葉は「拘り」同様、本来よろしい言葉ではない。
      馬を繋いでおく事を始まりとし、、どちらかと言えば「木綱」、木に結んである綱の意味でした。
      しかしこうした意味も知らずみんなで絆、絆と盛り上がり、ボランティアに行って力を貰ったなどと言う話でした。
      結局自分の心の弱さを救われに行ってどうするつもりか・・・。
      1923年の関東大震災直後、翌日の写真だったと思いますが、水たまりで若い女性が2人裸で体を洗っている写真が残っていましたが、これに関心を持つものは周囲にいなかった。
      皆自分が生きるために必死だった。
      これこそが復興と言うものです。
      政府や行政の援助を待つのではなく、自分たちの事はまず自分たちが救う。
      こうした精神があったからこそあの震災から立ち上がり、日本繁栄の基礎を築いた。
      振り返って今を見れば、どこからか助けが来る事を待ち、優しい復興の精神が説かれる。そして町は綺麗になって廃墟になる。

      コメント、有り難うございました。

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