「暖冬と深海魚」

確認が取れているもので残っている最古の記録は元禄時代だが、1923年の関東大震災を易で予言した小玉呑象(こだま・どんしょう)も言っていた「大地震の前は温暖なものなり」と言う伝承は、2019年12月から2020年1月までを見る限り、能登半島のこれから先に重くのしかかってきているように感じる。

能登半島は昨年11月から全く気温が下がらず、大寒に入った2020年1月20日を過ぎても昼間の気温は10度を超える小春日和となっている。

1月23日には20時から気温が上昇し始め、24日2時には夜中にも関わらず気温は13度を超えた。

さすがにここまで来ると異様に感じた人も多く、夜中に目が覚め、地震が来るのではないかと警戒した、そう話してくれる人もいた。

能登半島地震は2007年3月25日に発生しているが、この年も本来なら氷点下になる1月の気温は10度を上回り、穏やかな小春日和が続いていた。

1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)は1月17日に発生しているが、この年の1月11日前後、神戸では1月としては異例の17度の気温を観測している。

またリュウグウウノツカイ、ミズウオなどの深海魚が打ち上げられる現象と大地震の関係も古くから言い伝えられてきたが、こうした深海魚の打ち上りが顕著になってくるのは2005年の暮れからであり、以後毎年全国で深海魚が打ち上げられ、2007年以降、日本は毎年震度6以上の大地震に見舞われてきている。

そしてこうして毎年深海魚が打ち上る事から、大地震と深海魚の打ち上りの関係を否定する意見が出てきているが、毎年深海魚が打ち上り、毎年大きな地震被害を受けている日本の実情を考えるなら、むしろ深海魚の打ち上りと、大地震の因果関係は深まっていると考えた方が良いのかも知れない。

2020年1月4日福井県、同1月5日富山県にそれぞれリュウグウノツカイが海岸に打ち上り、1月18日には石川県輪島市でも複数の深海魚がちぎれた状態で発見されている事が報告されている。

2007年の能登半島地震発生前の状況にとても似てきているのであり、同様の警戒は北海道南西部にも言えるかも知れない。

2020年1月22日、本来この地域では捕獲されることのない「マメイカ」が大漁となり、岩ノリも大量になっているのである。

1993年に発生した北海道南西沖地震は7月12日に発生しているが、この1か月前から同地域ではヒラメが時季外れの大漁となっていて、漁師が首を傾げていたことが知られている。

同時に発生する確率は低いが、2月後半から3月にかけて、比較的近い時期に能登半島では震度6、北海道南西沖では震度7クラスの地震発生が危惧されるのではないかと思う。

今のところ確率でしかないが、大地震前の材料、前兆が揃い始めて来ている気がする。

何もなければそれに越した事はないが、能登半島と中越、それに北海道南西部地域の人は、少しずつ震災に備えた準備を始めた方が良いかも知れない・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「暖冬と深海魚」

    何時かは来るものだろうから、覚悟は決めて、出来る準備をして常在戦場(笑い)とは行かないまでも、いくつかの行動類型を考えておくのが宜しいでしょう。
    こういう感じの時にだけは、来てほしくないなあ、と言うのも幾つか、考えておくと、そのこういう時は、いくつかは楽し事を想定していれば、考えるだけで少し楽しいことも有るし、強烈な不意を突かれた感は軽減するかもしれません~~♪

    それで酷い場合は、自分が死ぬことも有って、死んだら、その後は如何でも良い話だが、自分なりの美学・希望があって、例えば、家族から感謝されるそうな行動~犠牲的精神を発揮して、村人の語り草になるような、稲むらの火のような「○○さんのお陰で、オラたちは助かった」と言われるように、心的予行演習を遣っおけばもっと良いかも知れませんが、鎌倉大佛の裏に有る「低徳院」(笑い)の如く、付け焼刃を発揮できず、身勝手な行動が出るかも知れないが、死んじゃえば、全然関係なし(笑い)

    小は日々の天候やら竜巻~洪水~これは人為だがロクデナシのデニー某のような知事が当選、中は、台風やら地震~期待大外れのハトヤマ某が首相、大は、巨大隕石~核戦争・・防げること、防げない事~耐えられること、耐えられない事、色々あるが、人為は人智で避けることも出来るかも知れないが、気象、もっと大きく言えば、天の運行は、何が起きても避けえない。究極は黙って死ぬしかない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      天道は虚い易くはかり難い。
      吉凶両方が在り、敵に取っての不幸は味方の幸福。
      災害を避けようと努力しながら滅びるのは致し方なし。
      しかし、これを怠惰に拠って招くは天道に背く。
      すなわち簡単に諦める、達観したように何もせざるは、生きようとして生きられなかった者たちに対する冒涜なり。
      死んでいった者たちを犬死させたも同義なり。
      抗う事が出来なくても、そこで必死に生きようとする姿にこそ、生きることの意味と美しさが在り、分かったような事で「運命」を使ってはならない。
      なぜならそれを言うなら、生まれてきた意味、生きてきた意味を否定するからであり、人間年を重ねると、どうしてもそうなってしまう。
      死の寸前まで生きる努力をする者を偉大と思いながら、自身がそれを為さないなら、その知識は意味がない・・・。

      コメント、有り難うございました。

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