「中庸」

私は好んで輪島塗やその技術を「中庸」(ちゅうよう)と表現しているが、「中庸」とは物事の中間や妥協点を意味しているのではなく、「常」や「凡」を意図したもので、それは古典中国思想の「徳」の概念を基本にしたものだ。

水は仕方なく上から下へ流れるのでは無く、あまねく森羅万象の理によって「普通」に流れているのであり、事に無理のない状態、何かに止まっておらずして常に自由に動ける形、その状況に応じて最も理想的なところへ自然に動いていく事を至上と考える為だ。

素地形成に措ける接合でも米糊の強度は弱いが、その弱さを知っていれば一番長い接着期間を得られるものの、これを一般の民衆が全て認知する訳ではなく、漆器の熟達者ですら塗りに特化していればこれを認知するのは難しい。

それゆえ一定の強度と一定の接着期間、これは社会的な概念だが、漆を使ってあるとした場合一体どのくらいの期間それが崩壊しない事を社会が望むかによって、或いはどのくらい壊れた物までを許容できるかによって、漆器の強度は変化する。

僅か素地の接合にしても、こうして社会と一緒に動いているのである。

漆器と言う伝統で有っても、それは常に社会や一般の他の物の環境によっていつも変化し、これで良いと言う物は存在しない。

「中庸」とはまさにそうした事を意味していて、例えば素地接合の場合、米糊では強度が弱く、シアノン系接着剤では強度は大きくともタイミングに弱いとしたら、これらの特性を程ほどに融合させた、漆と糊の組み合わせである「こく惣漆」がまさにその中庸と言うべきもので、漆の世界と中国古典思想の概念が同じように見えるのは、それが事の理だからである。

だから何等古典思想を勉強する事は無くても、人間は仕事や普段の暮らしの中からその原理を学んでいるのであり、その意味では我々個人が抱える問題も、社会全体が抱える問題も、その答えは全て眼前に揃っていて、唯それが見えるか、或いは見えていてもそれが実行できるか否か、と言うことなのかも知れない。

素地接合では木の断面を直接接合する事が望ましいが、近年はその利便性から「木工用ボンド」で木地接合が行われ、木工用ボンドの耐用年数は4年から6年であり、これを補強する為に漆と糊、それに焼成木粉(しょうせいもくふん)を調合した「こく惣漆」を、ボンド接合箇所に小刀で切り込みを入れ、中にねじ込む方式が一般的になっている。

ちなみにこの接合箇所の切り込みに使われる小刀は、塗師小刀「丹波」ではなく、「切り出し小刀」と言う雑用小刀が用いられ、切込みも接合面の一方向面だけを切り込む方式と、接合面の両方を切り込む方式が有り、前者を「片彫り」、後者を「両彫り」と呼ぶ。

その昔は素地製作と塗師が融合した形を持っていて、木地職は素地の部品が完成すると塗師屋へ連絡を入れ、そこで塗師屋から職人が来てこく惣漆で木地を接合し、木地製作者と塗り職が一つの部屋で共同作業によって素地を完成させたものだが、社会が個人的傾向を強めるに従ってこの形式は無くなって行った。

社会に措ける人間関係の弱さはまた、漆器の強度の弱さとなる良い一例と言える。

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 自分が読んだ論語の注解で最も共感したものでは、、その時に出来る、最善、最良と思われる事を継続して実行して行くと言う意識が中庸だ、って言っていました。
    中々困難な道では有りますが、心に隅に置いておくように心掛けております(笑い)。

    残念ながら、世に流布しているのは、対立する意見を足してその数で割る、と言う事で、何を目指しているのかも分からなくなって、前より悪くなると言う事のようですが・・

    職人とは限りませんが、休憩時間の雑談で、日常的な様子や困難を察知したり、仕事上の技術や方針を静かに交換すると言うのも大きな意義と思いうし、余り濃密でなくとも、全人的に付き合っていた感じが有りますが、今はパートの付き合いで、休憩になれば、みんなスマホに没入して内向きとなり、助け船も出せる機会が減っているのでしょう(笑い)

    農業や地域社会でも、「結い」が崩壊して、自由にはなりましたが、その新しい社会構造が人の生き方をより良くする智恵は未だ出ていなくて、都市も田舎も余りよい状態では無い感じがしています。学ぶには、もう50~100年ぐらい掛かりそうです(笑い)。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      中庸と言う言葉は難しいのですが、例えば唯物主義の一部、水が流れるような運命と事象の一致の一部、それと今の状況に対する逆性の少なさの事を言うのかも知れないですね。合理性と言う言葉も有りますが、これもやはり中庸とは違う。論語の解釈はその通りだと思います。
      人間の選択の誤りの最大の原因は感情だと私は思いますが、その時にできる最善の策は感情に拠って曇り易い。従って感情を排除すれば中庸になるかと言えば、中庸には人間の感情も残した部分が存在する、この辺が如何にも現実的な所かと思います。
      振り返って今の研究者や評論家の話は「リベート」であり、「話の為の話」でしかない。それと自己顕示で、これでは問題は解決できずに永遠に議論の中を彷徨っている事にしかならないだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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