「堕落の先に在るもの」

哲学、物理学、政治学、その他あらゆる学問の分野において博識があり、いわゆる「賢者」と呼ばれた「アリストテレス」(紀元前384年ー322年)は、プラトンの弟子であり、またマケドニアの「アレクサンダー大王」が幼少の頃に学んだ、大王の家庭教師でもあった。

その名前は(aristos)「最高の」と言う意味と、(teios)「目的」と言う意味の言葉を由来としている。

そして彼の説く政治学、古代政治学の政治体制論は、ギリシャ人文主義が見直されたイタリア「ルネサンス」の時期に措いてですら見直されることがなく無視され続けたが、そのルネサンス末期、つまりフランス革命に始まる近代政治学誕生の黎明期にはこれが見直され、今日では近代政治学の基礎的発想、政治学の源泉の1つとして認識されている。

アリストテレスは国家に措ける政府の形態、「政体」と言うものを支配者の「数」によって分類しているが、この視点は実に的を得たものであり、1人が国家を支配する「君主制」(王政や帝政)、少数の者が国家を支配する「貴族制」、多数の者が支配者となる「民主制」に政体を分類しているが、この中で彼は単に政体を分類するだけに留まらず、その三者がどう言う形で移行していくか、またこうした政体の「循環性」についても言及しており、このことは歴史家「ポリビウス」の「政体循環論」(regular cycle of constitutional revolution )でも知られるところである。

すなわち、有能な者、競争を勝ち残った者が君主に選任され、ここで国家の政治の在り様は「君主制」となるが、君主が世襲されて行くことによって「専制政治」、つまり1人の統治者によって何でも出来てしまう個人所有国家が発生してくる。

そしてここで少し補足を加えると、専制政治と独裁政治では、民衆が被るあらゆる苦難の質に措いて変化はないが、独裁政治はその統治者が「民衆」によって選ばれる、またはそこに身分的階級の上下はないが、専制政治の場合は、そこに身分の絶対的な乖離があり、統治者はその身分に措いて民衆を支配するため、独裁政治と専制政治はこの点に措いて区別されるものだ。

専制政治、いわゆる個人所有的国家体制は、やがてこうした在り様に反発する「有力者」の革命によって倒されることになるが、ではこの場合の有力者とは何か、それは専制政治体勢で君主の下にいた貴族、または君主に反感を抱いていた豪族と言う事になり、専制政治が倒された初期の頃は、彼らによる言わば合議制がその政治体制になるものの、その発生段階からこうした体勢には力の強弱が内包されているため、時間を置かずして「寡頭政治」(かとうせいじ)へと変質していく。

「寡頭政治」とは少数政治体制が更に少数化していくことであり、これは現代の政治体制でも存在しているが、いわゆる同じ権利を持った中でも、有力な者がその権利の委任を集めれば、その権利者の中でも上位の者と下位の者が発生し、次第に権利が少数の者に集中してくることを言う。

日本で言えば「派閥」や「グループ」が発生し、その中での会長や派閥領袖が大きな権力を握るのと同じことであり、こうした有り様でもその有力なことの要因が金銭による縛りであるなら、それを「金権政治」と言うのであり、はるか紀元前、遠くギリシャの時代から存在し、また政治学的にも知られていたことで、この原理は全ての集団に措いて発生してくる根本原理でもある。

やがて寡頭制が究極に達した場合、それは専制政治や独裁政治と同じ形式となってしまい、そこではやはり最終的には2、3人、若しくは1人による個人所有国家体制が再燃してくるのであるが、この貴族と言う部分を「政党」と言う言葉に置き換えるなら、そこに現代の政治が何故こうも民衆と乖離するのかが見えてくるだろう。

結果として貴族政治が寡頭政治に移行すると、次に起こるものは民衆による革命と言う事になる。

更にここからが面白いところだが、すなわち君主から貴族へ、そして貴族がだめなら今度は革命は「民衆」から起こるのであり、アリストテレスは貴族制から「寡頭制」へ移行する段階を「堕落していく」と表現しているのであり、その堕落の先に「民主制」を置いているのである。

アリストテレスは堕落の果てに有るものとして「民主制」を考えていたのだが、これは言い得て妙だと思う。

つまり堕落して寡頭政治になった貴族制は、更に下の民衆によって倒され、民主制は貧者が権力を欲しいままにし、最後は衆愚制(しゅうぐせい)に陥り、この無秩序に対応するため人々はまた君主制を求め、そして政治はまた君主政治に帰って行く・・・、アリストテレスは君主制、貴族制、民主制をこのように捉え、またこれが循環するものであると説いている。

また彼は貴族政治の堕落した形態を「寡頭政治」とし、民主政治の堕落した形態を「衆愚政治」としたが、ここではどの段階における堕落も「必然」と定義し、この循環は避けられないものと考えていたようだ。

何かで止まった形態をして漠然と完全な有り様を考える現代政治学の感覚は、この事を今一度良く考えておく必要があるのではないだろうか。

「民主政治とは、多数の貧民による貧民のための政治である。社会の多数者は当然に貧しく、教養は低く、富んだ者を羨み、かつ買収と扇動に弱い。そしてこうした状態を衆愚政治と言い、民主制は必然的に衆愚政治に堕落する」

これがアリストテレスが言う民主政治の必然である「衆愚政治」と言うものであり、ここで言えることは、政治が民主化していくことを理想の政治とはしていないことであり、常に安定したかと思えばそこから崩壊、堕落が始まり、更に下のグレードへと権力は向かっていくが、国家や大局的な政治の概念は、民主化とともに貧相になっていくとも言っているのである。

振り返って日本の在り様を鑑みるに、太平洋戦争を境界に立憲君主政治から自民党政治へと移行し、そこから民主党政権へ移行して行った過程などを見ると、この2300年も前の学者の言うことが、古代政治学どころか近代政治学の最先端のような輝きを持っているように私は感じるのであり、基本的に日本には大変微弱では有るが、立憲君主制も残されている。

もし日本に完全なる政治の不信が起こり、また巨大災害によって政府が瓦解したら、その時日本国民は誰を頼るだろうかを考えると、また政治を100年の単位で考えるなら、アリストテレスの言葉は決して軽いものではないように思うのである。

ただ惜しむらくは、こうした循環論が事実となるか否を自分の目で確かめることが出来ない、このことが少し心残りとなろうか・・・。

 

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「堕落の先にあるもの」

    仰る通りですねぇ、自分は見る必要~希望は有りませんが(笑い)寿命で起きることが全てで、それ以上は、煩悩具足の凡夫の及ぶところではない、と言う事だけれども、大東亜戦争で、東條英機宣誓供述書~山下奉文の遺書~市丸利之助海軍中将の「ルーズベルトニ与フル書」等、後世の日本人に勇気を与える思いを託した人は多かったように思う。

    孔子の理想は2500年経った今でも支那では勿論、世界のどの国でも実現されていないだけじゃなく、支那発の「毛沢東主義」は採用した国を、その国を史上最低の状況に落としている。

    国会の予算委員会で、立件(笑い)民主党の党首子分の平野某と言う議員が、テレビグルメ番組の影響か、首相は会食が多過ぎる、って言ったらしいが、これなんかも典型で、如何ともし難い。もしかしたら、この選良(笑い)は、今流行の「便所でボッチ飯」のご当人の一人かも。

    ミンシュシュギは、斯様なものだけれど、支那では大抵の王朝は、300年が経てば、寿命が尽きて、易姓が起きるが(笑い)、日本は、政体が、やはり変化が有って、独自に苦労して生み出してきているように思える、今の形は、途中で連合軍、地区には米軍に破られ、図らずも強制されたものだが未だ100年も経っていないので、未だ時間が掛かりそうだが、物理じゃないので、脳内・机上で夢想しても、そうはいかない矛盾が克服できず、社会・人間を相手の政治には、後数百年か掛かって何かしら実証実験が始まって、少しは成果が見られるかもしれない~~♪

    勿論、我が目の前で起きることは無い(笑い)。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      戦後日本の教育は「民主主義」至上、これを最高のものとして構築されましたが、プラトン、アリストテレスは言うに及ばず、近いところではチャーチルも「民主主義は最低だ」と語っていますね。
      国民新党、民主党政権を省みれば彼らがやった事は最低の政策でした。
      フランス革命は何となくさわやかなイメージで捉えられる部分もあるのですが、その後陥った恐怖政治に鑑みるなら、民衆と言うものがやる事は、一番愚かで残忍で道徳を失わせる。
      理想の政治体制と言うものは存在しなのだろうと思いますが、その中で新しいと思いながら古いものが循環しているだけなのかも知れません。
      良く今の社会を変えたいと言う意見を聞きますが、その具体策を持たずして、彼らが描いているのは今の自分の意見が通らない、これを通したいだけで、いざ権力を手に入れたら敵は殲滅になる訳です。
      その以前は反対意見を聞くことの大切さを説いて、現状の打破を唱えても、自分が権力を得れば、他者の意見は封殺する。
      それも以前より激しく・・・。
      これが民衆と言うものだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「後始末工学」

     今、例えばEV車AI制御が、最先端の様に持て囃されているが、勿論これも、売る側の論理(笑い)であり、再生可能エネルギー、原子力も同じ。最適性の存在継続方法は、人類で言えば、「ブッシュマン」の生活じゃなかろうかと思っている、自分は御免だが(笑い)

    或る程度、化石・地質研究からの知見が正しいとすれば・・
    恐竜は1.6億年位大繁栄していて、約7千万年前に、たかが直径10Km程度の隕石が地球に衝突して、脆くも滅び去り、当時ネズミ状の生物だった哺乳類にその地位・前途を譲った。
    その子孫から数百万年前に、人類が地上に現れ、ここ千年位~数百年で、地球の環境にも甚大な影響を与えてはいるが、その影響と言うのは、「人類が快適に生活するための環境、と言う程度であり、他の生物の視点からは、実はどうでもよい事の範囲内に留まっているかも知れない。
    アリは、具体的数字は覚えていないが、ヒトと比べて、個体数では何百億倍(?)だかで、生物量は人より多いらしい。ヒトが自分の失敗~大成功で滅びても、巨大隕石が地球を直撃するか、太陽がその恵みを地球に無償で(笑い)与えている期間が過ぎるまでは、地球はビクともしないし、奇跡の星の生命は、「変化発展」を続けるだろう~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      現在世界の民衆が捉えているエコの概念は甚だ勘違いと言えるでしょうね。
      エコになった気分だけを味わっているだけかも知れません。
      ただ同記事の末尾にも出てきましたが、地球の現在の生態系を支えている基本的なものは「植物」だと言う事です。
      この植物を減らすと他の生物は苦しい。
      地球全体のエネルギー量は変わりませんが、人間が劣化させたエネルギーのおかげで、海中の光合成生物、陸上の光合成生物に影響が出ると、それは人類ににも及んでくる事を認識しておくべきだろうと思います。
      少し我慢すれば、食器洗いは水でも良いだろうし、近いところなら歩くのも良い、不用意に病院を利用して大量の薬を摂取するのを止めるなど、こんな小さなことでも良いだろうと思います。
      気象正義などと言う大上段な事を考えなくても、自分が少し贅沢を慎めばそれでも違ってくる。
      そういう事を意図した記事でした。

      それにしてもここ数日毎日3000を超えるドイツ語でスイス経由の不動産投資のCMスパムに悩んでいたのですが、やっとセキュリティが効いてきて、ほっとしています(笑)

      コメント、有り難うございました。

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