「国力と女性支配」・Ⅰ

一般に豊かな社会、または衣食住などの生活上の基本要件が満たされている社会は「寛大」である。

古代バビロンに措いても、その聖典「ハンムラビ法典」の記録には孤児や寡婦(未亡人)に対する社会的保護の必要性が説かれているが、現代私たちが抱く「ハンムラビ法典」の大変厳しく、また女性を所有物としか考えないかのような印象は、実はこの法典が作成された後世「セム系民族」のバビロン支配から始まったものである。

聖書の解釈書などには「夫は妻を傷つけても罪に問われない」と言うバビロン法典の話が出てくるが、これも事実上「セム系民族」支配時代から始まった事であり、多民族国家であった古代バビロンでは、勿論奴隷などの制度は存在せざるを得なかったが、基本的に「目には目を、歯には歯を」の法律は対等な身分上での事で、実際には民族や人種による差別も殆ど存在していなかった。

だがこうしたバビロンに対して、何故セム系民族が女性の地位を貶めたかと言うと、そこには現代にも通じる「力」の理論が展開される事になる。

もともと国家や民族が成立していく過程で、その勢力が拡大していく背景には「軍事的侵略」が一番安易な方法となるため、新興勢力の台頭は必ず「力」による支配となり、こうした社会背景では相対的に「男」の価値が高くなってしまう。

戦闘に必要なものは「男」であり、「女」は戦闘が続いている以上「男」が存在しない限り自身の命の保障すら危ういことから、「男」に従属した形、そしてどこかでは所有物としか考えられなくなるが、このことは単に支配と言うことであれば、「女」は味方の男に支配されるか、「敵」の男に支配されるかの差はあっても常に「男の支配」から免れることが出来ず、こうした歴史が繰返されることによって「女」の地位の低下は慣習化していく事になる。

そして一度こうして女の地位が低下していくと、そこでは同一民族の女も敵民族の女も、男にとっては相対的価値観の差が失しなわれていくことになり、ここではどの民族の「女」もその地位は不確定になって行き、終いには全ての女が奴隷化していく事になるが、こうした環境で「女」が男に対してその価値観を示す唯一の手段が、容姿の端麗であることや男に対する忠誠であり、またその貞操の確かさしかなくなってしまうのである。

ただこうした観念は日本人には理解しにくい部分でも有るが、その背景は日本と言う国の領土が比較的確定しやすい弧状列島だったことに加え、古代日本は他国からも侵略されにくい反面、自国が他国を侵略する力を持てなかった為であり、その現実は領土と人口に限界があった事に起因している。

このため外の世界に「女」を求められない日本の「男」は国内で戦争を繰返していても、そこに存在する女と男の人口比率が極端に変化しないことから、女の地位を限度を超えて軽く出来なかった背景が有り、ために日本の男は、少なくともヨーロッパやスカンジナビア半島、アフリカよりは「感情的」に女の地位を貶めることが出来なかった現実がある。

恐らく古代文明の時代は「女」の地位が高かったに違いない・・・。

それはシュメール文明を引き継いだ形式のバビロンが、実に今日と比べても遜色にない女の地位を保障している事からもうかがい知ることが出来るが、こうした古代文明の女性観は、やがてその地域の侵略や戦闘の規模が拡大するに従って変化し、女性の地位を低下させていったに違いない。

それゆえこうした女性観は侵略からそれぞれの国家が成立して来る時代に措いても、確かに人文主義的な思想から一見向上したように見えながら、どこかで「所有物」としてのありようも残したものだったと言うことが出来る。

この傾向は宗教的結束や一族の結束を基盤に、国家として成立してきたイスラム諸国では顕著なものがあり、現代社会でもこうした女性観はまだ存在している。

昨年のことだが、トルコにある地方の村では父親の許可なく男の子と付き合ったと言う理由から、16歳の少女が父親や兄弟たちによって生き埋めにされ殺されている。

また現代でも一部の地域では、結婚するまで女性の貞操を守らせると言う考え方から、生まれたばかりの女の赤ちゃんの性器を縫い付けるなどのことも行われている地域が存在し、この30年ほど前までアフリカの特定の部族の中では、女の子が8歳になると成人した儀式として、衆目の面前で村の男たちと性交渉をさせられると言うものまで存在していた。

またこうしたことはイスラム社会だけで存在したかと言うとそうではない。

例えば7世紀ごろから始まったヨーロッパキリスト教徒とイスラム教の戦いでは、ヨーロッパ諸国から遠征と言う形で戦闘が繰返され、これを十字軍の遠征と言うが、この遠征に出陣する男たちは、その妻が美しければ美しいほど、妻を信じることが出来ず、「貞操帯」と言う金属と革で出来た下着を身に付けさせ、他の男と性交渉が出来ないようにし、その鍵は自分が遠征に持っていくと言う有り様で、他にも妻の幽閉、監視をつけるなど、そのキリスト教の教義に最もそぐわぬ行動をしながら「神」の為に闘っていたのである。

「国力と女性支配」Ⅱに続く

本文は2010年9月20日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 大陸の古代文明は、民族の攻防の歴史であり、他民族~同一民族でも女性は、所有物になることが多かったようだが、個人的には、男は女性を愛していたのであろうが、社会の空気に支配されて、女性も子供も所有物と考えたバカ者も(笑い)、大勢いた事であろう、今でも実子ながら自分と同じ程度だけで思ったようでは無い、って言うだけで虐待している~~♪。
    インドのヒンドゥー教では、被支配民族を次々に地位を落として、新支配者が特別の地位を維持しようとしてきて、今の首相は、ヒンドゥー至上主義者で、多数者の支持で、強い指導力を発揮している風にも見えるが、非ヒンドゥーの詰まりは、カースト外のゾロアスター教などが「自由」で経済的に差を付けられて、崩壊するかもしれない。

    一方動物は、特に人間以外の高等動物は、一見オスがメスを従えている風に見えることも有るが、番になるかならないかは、ほとんど例外なくメス側に選択権が付与されており、生物的永続性と言う意味では、メスがより重要な役割を帯びているように見える、オスでは単性生殖も出来ない。

    今、ジェンダー平等などの観点から、各国の国会議員の男女比率を比べて、日本は世界の165位だから駄目だ~~♪と言うことに成っているが、そんな事を言っている日本人以外が、日本に来て、そんなことで比べても意味は無い~日本がいかに自由で、江戸時代の支那から輸入した朱子学の呪縛の時代であってさえも、他の国から見れば、男女が平等である。その他平等であることを、自国の現況も歴史も知らない連中が、「MeToo」とか言って自己卑下しているのを見ると、平安時代の人々にさえ、嗤われることの畏れと自覚が無いのは、幸せを自ら放棄して、不幸を楽しんでいる冗談としか思えない(笑い)

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      結局のところ経済は豊かなら女に対する扱いは寛容になり、経済が上手く行かないと女にも厳しくなる。
      この点では家庭も国家も同じなのですが、どうも相対的に今の社会は普通の男が不遇の時代かも知れません。
      特に日本のような少子高齢化社会では出産可能年齢の女性は重要視される。
      しかし現実には政府の政策は高齢者側に傾いている。
      このひずみが社会や家庭で放出されている傾向が有り、この為一般社会ではどうしても腫れ物に触るような扱いになり、これが一般化する。
      火病のような女が出現し易くなる訳ですが、太平洋戦争後の日本は自由、平等と言う理想を何とか世の中が見せかけることができた時代でした。
      しかし、これからはそうは行かないし、僅かウィルス騒ぎでこのようなパニックなど話にならないと思います。
      弱過ぎるし、あまりにも脳天気ですね。
      何か1つ起こるとそっちだけにしか目が行かず、それも国民すべてがそうした傾向の国家は危うい・・・。

      コメント、有り難うございました。

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