「国力と女性支配」・Ⅱ

そして中国では「纏足」(てんそく)と言う風習が存在したが、これは女の子が3歳から6歳までの間に、その足を木型に入れて縫いつけ、足を大きくしないことを指しているが、1100年頃中国で始まったこの風習の由来は明確にはなっていないまでも、もともと儒教的精神を背景に、他民族の侵略が後を絶たない漢民族の間で女が安易に連れて行かれないため、女を長時間歩けないようにしたもの、若しくは端的に言うなら「女を逃がさない」ことの為に始まったと考えられるが、こうしたことが後には中国での女性の自主的価値観変化に発展して行った経緯まで存在している。

すなわち美人の条件として「足が小さい」ことがもてはやされ、こうした社会の風潮に女性たちが社会的価値観を自分に重ねていくようになったものだが、当初の明確な目的ではなくファッション化した「纏足」は、その足先が見えないことをして、世の男たちに「女の足先」に対するフェティシズム与えることとなったのであり、その結果、女たちがより良い伴侶を求めるために、「纏足」と言う極めて屈辱的な風習に固執するようになって行ったのである。

男と女の関係は実に面白いところがあり、僅かでも男の地位が高いと、女はその男に気に入られるような行動や風習を取り入れていくし、僅かでも女の地位が高いと、男はその女の希望に合わせた事を取り入れていくが、そこに例えば当初は屈辱的なものが有ろうと、やがて社会にそれは蔓延し、こうしたことを考えるなら、基本的に人間と言うものはいつの瞬間も、今までの価値観を転化できる要素を持っている事になるが、この柔軟性こそが本流の流れをそう大きく変化させないことにも繋がっているところがある。

だが近年のありようとして、4000年前が「自然的秩序の時代」であったとするなら、2000年前から現代までは「戦闘と侵略の時代」と言うことが出来、そしてこれから先は「経済の時代」と言うことが出来るのではないか・・・。

従ってこれまでは戦争によって営まれてきた人間社会が、今度は経済的戦闘によって営まれる、つまり女性の価値観や、また男性が女性を支配するにしても、その根拠が「経済」になってきているように思えてならない。

先ごろアメリカでイスラム教の聖典、「コーラン」を焚書しようと言う運動を起こしたキリスト教の牧師が現れたが、幸いにもこの運動は回避され、その後一部の動きとしてこうした運動は残ったが、これなどは実は表面的に見えるイデオロギーや、宗教的な対立以前の更に深刻な側面を持っている。

アメリカもそうだがヨーロッパも、現在は殆どが他民族国家であり、こうした国家で異民族の排斥運動が起こるときは、その原因に当該国家の経済的困窮がある。

その経済が豊かなとき、人は寛大なものだが、経済が少しずつ困窮してくるに従って、実際の生活に追われてくる民衆もまた少しずつ「他」を意識し始め、それまで多民族国家を当然と考えてきた社会は「選民」と言うことを意識し始める。

すなわち納税しているか、また人種としてこの国家の正当な国民とは何か、またそれまで国家と国民を分けて考える、つまり国家はともかく人間として判断してきたものまでが、ナショナリズムの影響を受けることになり、ここにその国家が「寛容」であることを失った姿が浮かび上がるのである。

自由であること、そして力と運を持つものが成功し、それが誰であろうと賞賛される社会、真の自由と独立を大切にするアメリカは、基本的には思想に対して中立な考え方をその根本としているが、これまで労働問題で外国人の排斥運動はあっても、その根本理念である自由、いわゆる宗教に対する自由に対しては一定の価値観とプライドを持っていたものの、そのアメリカ社会から思想的排除運動が起こったことは衝撃的だった。

「そこまでアメリカは困窮してきているのか・・・」と言う印象である。

また同じ観点でヨーロッパを見るなら、ここに労働力を提供している国家はその多くがイスラム諸国であり、ヨーロッパの労働を支えてきたものはイスラム社会と言うことが出来る。

しかしリーマンショック以来、浮かび上がれぬヨーロッパ経済は、その困窮ゆえに労働力の過剰状態となり、また経済的な落ち込みから発生する外国人排斥運動は、これまでもくすぶっていたフランスの異民族衣装排斥の動きに加速をつけた。

ヨーロッパでイスラム女性が身に付けている「ブルカ」や「ニカブ」など、あの全身を覆って人に肌を晒さない衣装の着用を禁止している国は、国家としてはこれまで存在せず、イタリアの一部地方自治体でのみ禁止されている程度だったが、それが2010年9月14日、同衣装の公共での着用を禁止する法案が、フランス上院で賛成246、反対1の圧倒的賛成によって可決されたのである。

この法案は2010年7月、既にフランスの国民議会(下院)を通過しており、これでこの禁止法案は正式に成立したのだが、今まで国家レベルで例え異民族とは言え、その着ているものまで規制することのなかったヨーロッパ社会は、このフランスを先頭に、ますますイスラム女性の衣装に対して規制を強める恐れがある。

もっとも自由博愛を標榜するフランス国内には、これまでもこうした民族衣装の規制問題に対し、憲法上の違憲状態ではないかと言う慎重論も存在していて、フランスの行政諮問機関である国務院は、「本来自由であるべき着衣に関して一律全面禁止は憲法上の整合性を失う」とも見解しているが、大局的にはこの法案がイスラム女性のみに関わる法案だと言う事実は変わらない。

「国力と女性支配」Ⅲに続く

本文は2010年9月20日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 他人に気に入られようとする行動は決して悪い面ばかりではないが、直ぐ自己目的化して、世の中には、初めから諦めて、デブ放題もいれば、若いみそらで、顔色の悪いダイエットも多い(笑い)。
    ムハンマドを風刺したフランスの新聞社が、マリアを売〇婦にされれば怒るが、どちらも自分に非は無いと確信している。
    日本も、フランスの服装の平等を嗤っていられないのは、小学生が6年間ランドセルを背負い、真冬でも小学生が半ズボンを履いているが、誰も咎めない、ま、最も、パンツ一丁のほぼ裸で、保育~教育している保育園が未だに人気だが、勿論保育士は、裸じゃない(笑い)
    DNA鑑定で科学的に否定されているのに、稲作は朝鮮半島経由で日本に齎されたと思っている人々は、未だ新知見を取り入れずに旧臘に固執して、事実には眼を瞑って、「べき」の中で生きている。
    日本は、大陸から色んな事を輸入して学んだことも多いが、「纏足」と「科挙」を導入しなかったのは、賢明であったが、論理と言うより、文化の感覚だったように思える。漢文も使ったが、万葉仮名も使ったし、ひらがな・カタカナも発明した。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      フランスは原則社会主義の思想ですから、手続きが基準になり、本質は考えられないかも知れません。
      行政が行き過ぎているのですが、反対にイスラムは行政が村単位の慣習だったりします。
      この中では歴史上必要な事が淘汰されて残ってくる良さが有りますが、現在を考えるなら少し遅くなります。
      どちらが良いとも悪いとも言えない部分では有りますが、古代中国でも王朝が行き過ぎると行政が重くなり、やがて行政を握った者が王朝を覆すと言う歴史を繰り返し、今は共産主義です。
      ですがこれで女性の地位が向上しているかと言えば、そんなに大きな変化が有る訳ではありません。
      言い換えれば思想だけでは男女の関係は変らないと言う事なのですが、これを制度で変えようするところの矛盾を考えない欧米の価値観、その結果がどうなっているかと言えば、毎日殺されて埋められる女性の数の多さを診ればわかるのではないでしょうか・・・。

      コメント、有り難うございました。

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