中東を旅したことがある人なら一度はこうした言葉を聞いたことがあるだろう。
「アラーの御心のままに・・・」
この言葉は旅の安全を祈るときもそうだが、実際は「約束」をした時にも多く使われる言葉で、一般的に中東イスラム圏での約束は破られる事が多く、時間などの約束は絶対と言って良いほど守られないのが普通だ。
そしてそんな時の為にも「アラーの御心のままに・・・」と言う言葉が使われる。
つまり約束が守られるのもアラーの神のおぼしめしなら、それが破られることもまたアラーのおぼしめしであり、約束が破られたと言うことは、その約束がアラーの神の御心に沿うものではなかったと言うことになる訳だ。
なかなか面白い考え方だが、これを「はい、そうですか」と認められる日本人は恐らく少ないだろう。
そんなもの「詭弁」に過ぎないと思う人が殆どに違いない。
私もむかしはそうだった。
だが不思議なものだ・・・、日本に帰ってきて長く百姓をやっていると、こうした「アラーの御心」と言うものが漠然と理解できるようになってきた。
つまりは運命と不確定性原理のどちらが先なのかと言う話だが、それは同時であるとことに気が付く。
水飲み百姓の営みなど、天のことわりからすれば、ほんのお情け、その隙間でやっと暮らしを立てさせて貰っているようなものだが、天気などは人間が命がけで祈ろうが、頼もうが、全く是非も無い。
非情と言う意思すらも無く、淡々とそれが流れて行き、人の願いなどまことに虚しいものでしかない。
それゆえ百姓をしているとどこかで理不尽なことを少しずつその体内に取り入れるような感覚が出来てくるが、これは諦めではなく、全ての状況に対し常に一体となることのような感覚でもある。
全ては結果であり、その結果こそが運命だったと思えるようになる。
毎年苗を植えれば必ず米が出来るわけではなく、日照りが続けばせっかく実った米が太陽に焼かれてくしゃくしゃになってしまうし、多く穂を付けさせればその稲は雨で倒れてしまい、刈り取りが終わらないうちに新米から新しい芽が出てくる。
洪水があれば一夜にして水田は土砂を被ってまるでグランドのようになるが、それは誰のせいでもない。
全てが天の御心と言うものであり、米が収獲できることも良いことなら、米が収獲できないこともまた良いことであると思うより他は無いのである。
そして黙って土砂をどけて、凝りもせずに次の年にはまた苗を植える、次の年がだめならその次の年もまた苗を植える。
厳しい現実があっても、その現実は常に行動でしか打破できない、そんな簡単なことを私は子供の時から百姓をしていながら、今更ながらに気づき、また愚かだがこうしたことに大きな価値があることにも、最近になって分かってきたように思う。
いつ頃からか忘れたが、私は訪れた人の名前を聞かないようになってしまった。
相手が言わなければそのまま喋っているし、帰り際に住所や連絡先ですら聞かないようになった。
また会社でも取引先とは本当に親しげに電話しているが、20年来の取引がありながら一度も会ったことが無い人もいる。
「全ては仕事で返す」と言う会社での基本的な有り様も、今から考えればその根底には百姓と言うものの有り様が、染み付いていたからこそのものだったかも知れないと思う。
住所や名前など知っていても詮の無いことで、それを必要としなければ、知っていても何の意味も無い。
だからもし本当に必要なら、こちらからどんなことをしてでも相手を探し出すだろうし、その反対に相手が自分を必要とするなら、何があっても自分の連絡先を聞くものだと思うのだ。
それゆえ私は、いつもどこの誰か全く分からない者とでもにこやかに喋っているが、どこかで縁があるものなら、必ずもう一度会えると信じて疑うことが無く、そう信じるからこそ何も聞かない。
最近私に会った人は皆、「良い色に焼けましたね」と言うが、無理もない。
9月中ごろから炎天下にコンバインを動かし稲を刈り取り籾(もみ)にして、それを袋に入れて乾燥場まで運び、籾すりをして玄米にし、そして出荷する作業を連日繰り返しているから、サーファー並みに華々しく日焼けしている。
また30kgの米の袋は朝と夕方にそれぞれ100個近く運ばなければならないが、これが終わる頃には心臓が飛び出そうなほど疲れ、ここまで来ると喉を通るものは水ぐらいしかなくなっていくが、恐らくどんなサプリメントを飲むよりダイエット効果があるだろう。
だがこうして収獲した米の一部を地主の人の所へ持って行くと、本当に感謝してくれる。
こうした時代、農業の後継者もいなくて土地は荒れ放題だから、「小作料は要らない、少し金を出すから米を作って貰えないか」と言う地主が殆どの世の中、通常この付近でも皆地主に小作料は払っていないが、私はただで人から施されるのが嫌いだから、少ないが小作料として米を持って行くことにしているのだが、みんな「今年もありがとう、来年もお願いします」と言ってくれるし、新米を楽しみにもしていてくれる。
そして現在はこの村に家も無くなってしまって、田んぼの所有権だけを持っていながら都会暮らしをしている地主の子孫の人には、地代としてこちらも30kg入りの米を毎年送っているが、送料が大変だからお金で払うと言うのはどうかと相談したのだが、自分の先祖の土地で収穫された米は金には代えがたい、送料は着払いでも構わないから米が欲しいと言うので、こうした人にも毎年故郷の米を送っている。
農作業でくたくたになりながら、空いた時間にはこのように米も地主である年寄りに届けなければならないが、楽しみにしていたという年寄りの顔を見れば、農作業の苦しさも少しは癒される思いがするし、故郷の自分の先祖の土地で取れた米は金には代えがたいと言う言葉は、恐らく日本人の米の味に対する気持ちの根源であるようにも、また百姓と言うものの有り様の本質であるようにも思える。
さて稲刈りもどうやら終盤に差し掛かってきたが、家ではまだ新米を食べていない。
むかしから農家は種籾を保管する意味で3年分の米を家で貯蔵し、その古くなった米から食べていた習慣があり、しかも古米ほど炊いたとき水で量が増えてお徳である。
また近年、直接家に米を買いに来る人もいることから余分に米を置いているので、家ではこれを先に食べていかねばならず、従って新米が食べられるのは来年の3月頃だろうか・・・。
ちなみに訪ねて来る人が、私にいつごろが都合が良いかを聞くことがあるが、こうしたときの答えは「できれば、雨が降った時にお越しください」と言う事になっている。
最近、思いついたのは・・・
「アラーの御心のままに」=他力本願=南無阿弥陀仏
米を一回も作ったことが無いのに、米の食味研究家が、結構いるらしい。平時は枯れ木も山の賑わいだが、異常時は、きっと集団を滅ぼす作用を発揮~~♪
それと似たような、小さな「行政」「公衆衛生~防疫」の知識・経験もないのに、上から目線で、ご立派なご意見を開陳する方々、それに賛同する国民~~♪
ハシビロコウさま、有り難うございます。
インシャ・アッラーは他力本願とは少し違うと思いますよ。
どちらかと言うと運命肯定だと思いますが、予め全て投げ出して任せるのと、その以前に色んな努力も肯定しながら、最後はそれに従うと言う図式は「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行けると言う事とは一線を画するだろうと思います。
そもそも私自身は「南無阿弥陀仏」と唱えれば何とかなると言う親鸞の教えには反発です。
そんな都合の良い仏がどこにいるものか、と思うのですが、親鸞のそれは一種の諦観だったと思います。
天には反発しながら畏れながら、敬いながら憎みながら・・・です(笑)
コメント、有り難うございました。