「表裏比興」・Ⅰ

「親方さまに言上つかまつる」

「これは大叔父殿、あらたまって如何なるご用向きにございますや」

「されば、此度ご本家嫡子、信幸殿のことにござれば、この戦国乱世にあって小国がもはや豊臣、徳川のいずれかに組してと言う時にあらざればと思いましての・・・」

「大叔父殿、かたじけのうござりまする。この昌幸、まさにそのことを思案致しておりましたが、大叔父殿のそのお言葉にて、一切の腹を決めましてござります」

「真田は小国、生き残るためには敵、味方いずれにも人を配しておくことが肝要かと、またこれは矢沢頼綱の遺言としてお心に留め置き頂ければ有り難い・・・」

「大叔父殿、昌幸、誓って大叔父殿のお言葉、肝に銘じますれば、何卒ご安度を・・」

藤の花が初夏の光を僅かに紫に染めてはね返す山野に口元を緩める矢沢頼綱、そして同じようにかすかに口元を緩める真田昌幸の姿は、まるで平和そのものの風情だったが、この瞬間戦国乱世にあって小国ながら全国にその名を轟かせた真田家の嫡子、「真田信幸」の徳川家との婚礼が決まったのである。

真田昌幸はもともと父である「真田幸隆」が不本意ながら従わざるを得なかった甲斐の「武田信虎」の所へ人質として取られていたのだが、その智謀に措いては、7歳の頃から既に父幸隆にも劣るものではないと讃えられた知恵者でもあった。

その後武田信虎が嫡子の「武田晴信」(信玄)によって「今川義元」のところへ追放されると、昌幸は信玄に付き従って武田軍の要として活躍するようになる。

やがて武田軍の中でもその人ありと謳われるようになって行った真田昌幸、そして武田信玄は北条と同盟を結び、念願の京都上洛を目指して進軍中(1573年4月)に病没してしまう。

信玄亡き後、家督を継いだ武田勝頼、彼は諏訪氏の流れをくむ姫と信玄との間に生まれたのだが、その利発そうな幼少期とは裏腹に、長じては徳川に通じた家臣の進言にほだされて大きな居城を築き、そのために木曽のヒノキ山が丸裸になるのではないかと思えるほど木曽氏に負担をかけ、また主だった家臣たちにも重い負担金を課して行った。

「朽ちた木は良く燃える」

これは徳川家康の言葉だが、もはや信玄亡き後の武田など思うままがだったことが伺える。

すなわち城の普請には膨大な金がかかり、それによって家臣たちの心は主君から離反し、また勢力も衰えることになるのだが、そのことに気づかない勝頼は、木曽氏や信玄亡き後勝頼に仕える事になった真田昌幸等の説得も聞かず、身分不相応な城を築城してしまう。

またこの間1574年には昌幸の父真田幸隆が死去、その後徳川の陰謀によって勢力をそがれ、落ち目になっていた武田軍は長篠の合戦(1575年)にて織田信長、徳川家康の連合軍と雌雄を決するも大敗し、この合戦で昌幸の上にいた2人の兄も討ち死にしてしまったことから、真田家の家督は三男の昌幸が継ぐことになる。

もはや武田軍の命運は尽き、その所領を大きく後退させた武田勝頼、これを不安に思った昌幸は、この時期に遠縁を頼って羽柴秀吉の弟である「羽柴秀長」の家臣にもなっている。

やがて1578年越後の上杉謙信が死去、これによって甲斐と越後は和睦が成立し、

武田、上杉同盟が成立するが、この2つの勢力で織田信長軍と対抗しようと言う訳である。

だが実質この同盟では既に大きく力を失っていた武田勝頼の命運は、時間の問題であり、もはや将来的には自活しかない真田昌幸は、この同盟が成立するとすぐに北条氏の所領である東上野に攻め入り、沼田城や名胡桃城を奪取する。

そして1582年、織田、徳川連合軍はついに本格的に武田勝頼の所領に侵攻を始めるが、これに対抗するだけの力がない武田軍は防戦一方、敗走するばかりだった。

この状態に真田昌幸は武田勝頼に甲斐を捨て、上野へ後退することを進言するが、もともと智謀策略に長けた真田昌幸を勝頼は信じることが出来ず、小山田信茂の岩殿城へ敗走する途中、小山田信茂の裏切りに遭い、あえなくここに命を落とす。

武田勝頼が岩殿城へ敗走する情報を知った真田昌幸は「何で、殿はこんなことが分からないのか・・・」と悔しがったと言うが、真田昌幸はこの少し前に北条氏直(ほうじょう・うじなお)とも接触をはかっていて、このことから勝頼は昌幸を信じられなかったようだが、北条氏直はもともと信義や礼に篤い男であり、ここには敵対していても何がしかの密約の存在が伺えるが、それが勝頼にとって有利なものであったか否かは、定かではなく、もしかしたら勝頼の選択は的を得ていたかも知れない。

「表裏比興」Ⅱに続く

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。