「表裏比興」・Ⅱ

武田勝頼が岩殿城へ向かった事を知った真田昌幸、だがしかしそれからの昌幸の行動は早かった。

早めに降伏したものはその所領を安堵するとの織田軍の方針に、早々に降伏した真田昌幸は、今度は織田軍に組する事になるが、その織田信長は3ヵ月後の1582年6月、本能寺の変で明智光秀によって討たれてしまう。

この本能寺の変によって織田勢力が突如消滅状態になった甲斐、しかしこのとき既に武田の勢力も殆ど壊滅状態にあったことから、甲斐、信濃は徳川、北条、上杉がそれを奪い合う大混乱地帯となっていくが、その中で真田昌幸は当初、織田軍の滝川一益の家臣として北条攻めに加わっていた。

しかしここで主君信長を失った滝川一益は北条氏直軍に破れ、ここから真田はそれまで敵だった北条氏直軍に組する事になり、一時はこれで北条軍が信濃支配を実現しそうなところまで行くのだが、ここで北条と敵対していた徳川家康の懐柔に応じた真田昌幸は北条を裏切る。

その結果、これでは徳川に対して勝算の薄くなった北条は徳川と和睦の道を選択するが、このことは何を意味していたかと言うと、真田昌幸と徳川家康の策略がそこに存在し、所領を確定させたい真田と、信長亡き後の天下をうかがう家康の利害が一致したことが、この大団結の道を開いたのである。

だがこの後徳川家康は大きな見込み違いをしてしまう。

それはこうして北条氏との和睦を成立させるに当たり、家康の策略を理解した真田昌幸に対する家康の警戒心が招いたことだったが、家康はここで北条氏に和睦の条件として真田の支配する沼田城を引き渡すように求めた。

これは明確に徳川の真田潰しであり、もともと真田に奪取された領地である沼田など、と言う思いもない訳ではない北条氏直にとって、こんな条件など条件のうちにも入らないものだったことから、この条件での和睦は成立し、しかも真田を潰すことを考えた家康にとっては「してやったり」だった。

ところがこのことを知った真田昌幸は、今度は徳川、北条と敵対していた越後、上杉景勝の下へ走り、ここに北条、徳川対上杉、真田の対立が始まるのだが、上杉の背後には豊臣秀吉がいることから、この対立の実質は徳川対豊臣の対立とも言え、この時点で真田は豊臣方の勢力に組して行ったと言うことになる。

「今更許せとは虫が良すぎる」

上杉景勝は丸腰でひれ伏す真田昌幸と、昌幸の次男「真田幸村」を睨み付ける。

がしかし、暫くして表情を和らげた上杉景勝は「だが戦国の世とはそうしたものよ」と言うと彼等を城に泊め、翌日には人質として越後に残ろうと覚悟していた幸村に対して、自身の脇差を手向け、昌幸とともに帰って戦うが良い・・・、と言うのである。

「徳川相手では、恐らく2人とも命はあるまい。人質の必要など無い、憂うことなく死ぬるが良い」

この上杉景勝の言葉に真田昌幸は幸村にこう言う。

「上杉が滅びるときは我等も一緒に滅びようぞ・・・」

こうして沼田に帰った真田親子、やがて昌幸は1583年千曲川の北に松尾城(上田城)を築いたかと思うと、その周辺には城下町を構成させ、完全に信濃制圧に向けた布陣を完了させつつあったが、これに激怒した徳川家康は、約7000の兵を上田城に差し向け、真田昌幸を攻めるが、天然の要害に囲まれた上田城は難攻不落、加えて真田昌幸のあらゆる攻略によって、たった1200人の真田軍を攻めることが出来ず、徳川軍は一方的に1300人もの犠牲を出して敗退することになる。

「真田が徳川を破った!」

このことは瞬く間に全国へ話と伝わり、これによって真田家は、小国なれど徳川や上杉と同じように誰かに臣従することでしか自国を守れない存在ではなく、自国の自決権を持った「独立大名」として認められることになったが、真田は何故これほどまでに強かったのだろうか。

その答えは「情報」にあった。

すなわち真田昌幸は「くさ」と言う、簡単に言えば忍者に近い情報収集の専門組織をその配下に従えていて、彼らが集めてくる情報によって敵の動きを察知し、それに備えるあらゆる対策を講じていたのである。

「くさ」には女も多く存在していて、その情報網は徳川、北条、豊臣、それに同盟を結んでいる上杉に至るまでくまなく配置されていた。

それゆえ真田昌幸は上田にいながら天下の動きにも通じ、大局的に天下を眺めることが出来たのであり、このことが徳川軍を打ち破るに至る力となっていた。

徳川軍は実にこれから後も2度、3度と上田城を攻略するが、真田昌幸はことごとくこれを撃退して見せた。

またこうした中で昌幸の次男「真田幸村」は「人質の必要など無い」と言ってくれた上杉に真田の信義を示すため、自ら進んで人質として出向いていたが、若く才気溢れる真田幸村の将来を考え、上杉景勝は幸村を上杉の盟主である「豊臣秀吉」の元へと送ったが、これは真田が豊臣に臣従する意味をも持っていて、ここに真田は名実ともに豊臣の家臣となったのであり、やがて織田信長亡き後小競り合いを繰り返していた豊臣と徳川は、徳川が豊臣秀吉に臣従することで和睦し、こうした流れの中から秀吉が徳川と真田の仲介に乗り出していった。

しかし秀吉が北条、徳川、真田が絡んだ沼田城の問題に裁定を下している最中、北条軍の一部が「名胡桃城」を攻め、これが明確な豊臣裁定への反逆行為となってしまったことから、秀吉が激怒し、これが発端となって豊臣軍の小田原城攻めへと発展していったのである。

1589年、豊臣秀吉と徳川家康の和睦が成立したとき、秀吉はその距離的なこともあってか、真田を徳川の下に置いて、全ての所領を安堵しているが、もともと水と油の徳川と真田、秀吉の考えは真田を徳川に対する楔(くさび)と考えていたにちがいない。

しかしこうして秀吉のおかげで武力では真田を抑えられなくなった徳川家康、彼はここから彼らしいやり方で真田の分裂をはかって行くことになり、それが真田昌幸の嫡男「真田信幸」と、徳川家の養女となった本多忠勝の娘「小松姫」との婚儀である。

もっとも真田の血を引く信幸の才覚をめでる気持ちは徳川家康にもあっただろう。

しかしそれ以上にこうして置けば、真田は基本的には嫡男を徳川に人質として差し出しているも同然になり、万一その関係が悪化した時には、大いに徳川は有利になると踏んでのことだった。

冒頭の真田昌幸とその叔父「矢沢頼綱」の会話は、こうした徳川の申し出に、どう対処すれば良いかを話していたのである。

そしてこの席で矢沢頼綱は、戦国乱世に置いては敵にも味方にも通じておかねば、小国は生き残れないと言っているのであり、その言葉に真田昌幸は自身も、同じ事を考えていたと話していたのである。

嫡男を婿に差し出すことはある種の屈辱ではあるが、確かに先のことは分からない。

如何なることが待っているとも言えず、ならば両方にその種を配しておけば、万一どちらかが滅んだとしても真田と言う家は残る。

そして徳川のことである。

いつかは真田はまた徳川と決着をつけねばならぬ時がきっとやってくるに違いない。

親子兄弟が刀を交えなければならない事がきっとあろう、それが戦国乱世と言うものだ、もしものときはわが手で信幸は切って捨てる・・・。

「表裏比興」Ⅲに続

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。