「好悪の等価性」

中国共産党の創始者、初代指導者の「毛沢東」(もうたくとう)はこんなことを言っている。

「いつまでも仲良くしたいなら、仲良くしないことだ・・・」

卑屈が極まって拡大し、表面的には大きな人間性を獲得したかに見えた彼らしい言葉では有るが、それだけに軽薄な人間性を謳い続ける歴代合衆国大統領などの言より重いものがある。

人間の関係に措いて最も理想的な形とは、実は良好な関係をしてそれを求めることは出来ず、またその関係が悪化しているからと言ってそれが悪いと言うものではない。

実は人間と言うものが気にするその関係に措いては、良好な関係、悪化している関係も同じような「縛り」、「拘束」を持っているものであり、これから判断されることは自身に取って最も理想的な関係とは、そこに何らかの「利」があれば、相互の関係が良好であれ、悪化であれ、良い関係であると言える。

また「利」とは金銭や物品の供与を受けるだけではなく、その関係によって得られるあらゆる自身に対する「有益性」を指していて、これには勿論心情的な満足感も含まれるが、こうした関係に措いて自身が「有益性」を享受するためには、等価の有益性が相手にも供与されなければならず、またこれが心情的なものなら、同じく等価の心情的供与が相手にも成されなければ一般的な意味での良好な関係とはならない。

従ってこうした良好な関係と言うものはあらゆる意味で「許容された拘束」、または「自主的な拘束」と言うものであり、この観点から敵対する関係と言うものも、実は相互による何かの奪取、同じ目的に対する執着、または心情的な優位性の競合と言う、良好な関係に置いても中間命題となる要素と同等のものを包括しているのであり、それゆえ良好な関係と悪化している関係は基本的に近いものか、若しくは等しい。

そしてこうしたことを更に突き詰めるなら、良好な関係に措いては人間相互に物品であれ、心情であれ何らかの相互供与が発生し、ここでは供与の際に相互を行き来する間に「ロス」が発生していく、またこれが悪化している関係に置いては「譲歩」や「妥協」と言った相互供与の反対の命題が現れるが、これは同じ紙の裏と表のようなものであり、これも「ロス」や「労力」が発生し、従って良好な関係も、悪化している関係も基本的にはその人間にとって、何らかの「損失」を生むものだと考えた方が良く、この点では「毛沢東」の言葉には整合性がある。

唯、こうした理論には反論も勿論有るだろう。

自分は円滑な友人関係、または夫婦、恋人関係でとても有益かつ幸福になっていると言う人も多いことだろう。

しかしそれは自身が知らないところで、誰かの労力が無償化していると言うことであり、誰かが心情的に我慢していると言うことの事象が見えていないだけに過ぎす、こうした意味では経済でも同じことがある。

例えば2つの町内の境界線付近で、2つのケーキ屋が存在し、互いにその存在を知っていて仲良くしていたとしようか・・・。

ところがある日を境に片方の町のケーキ屋の売り上げが急激に伸びてきて、これはおかしいと思い、このケーキ屋の主が隣町のケーキ屋を訪れたが別段何の変化もなかった。

しかしそのケーキ屋には親戚に多額の負債を抱えたものがいて、この保証人になっていると言う事情があり、そのため金に窮したこのケーキ屋では満足な材料を買えずに苦しいことになっている現状から売り上げが急落し、結果として一方のケーキ屋の売り上げが急増している事実は伝わらない。

実は本人が良好な関係によって得られていると思っているもの、その関係の連鎖の中には必ず弱体化した存在があり、それが被っている損失、これは心情も含めて全てそうだが、こうしたものによって得られているのであり、また良好な関係があらゆる面で結束して外に向かったときは、ここに集団として完全に「利益」が目的となることから、これは既に人間関係ではなく経済活動、政治活動を付帯した連携となるのである。

そしてこうしたことはまた世の常であり、幸福な者、豊かな者が存在すれば、それと同じだけの小さな不幸や貧困の集積があり、限定された地球と言う中で経済がいくら発展しようが、利益が出ればそれと同じだけの不利益が発生し、しかもそれが相互にやり取りされている間に「ロス」を発生させ、結果として膨らんだように見えながら、その実態はどんどん軽くなっていくことになる。

人間の良好な関係と言うものはこうしたものと同じことなのである。

それゆえ人間関係に措ける理想的な形とは、その本質を言うなら「安定」にあり、しかも幸福でもなければ不幸でもない状態を指している事になる。

毎朝電車で出会う人間の中で、良好な関係を築こうとすればそこには何らかの「供与」が必要になり、例えば相手が綺麗な女性なら、彼女にしたいと言う目的が発生し、また居酒屋で一緒になった隣客との会話には、何某かの自分の有利性やチャンスを感じるのが人間の心情と言うものである。

そこでは少なくとも「挨拶」や「笑顔」と言った労力が必要になり、これが敵対する関係でも同じように「顔をしかめる」、「意識して無視する」、または「気分が悪い」と言った感情的労力を要するのであって、その延長線上には強弱はあっても「対価」が存在し、この意味でも良好な関係と悪化している関係は同じようなものなのであり、友人や恋人などと言った関係では、更に大きな労力を要しないとその関係を維持することが叶わず、これは本質的に大きな敵と相対していることと等しい。

また人間関係でその理想を「安定」に求めるのは、例えば敵と友人の真ん中に自分が存在したとして、この中で友人側に自分が傾くためには更に友人に対する供与の増加が必要になり、また友人との関係が希薄になれば敵の勢力が相対的に自分に及んでくることから、結局現状がbestであるなら、そこから動くと自分から出て行くものが増加していくことになり、対費用効果として鑑みたとき、これは友人との関係を強化するのも、敵対する者の勢力が増大することも同じ損失を生むのであり、このことは日本とアメリカ、中国との関係を考えれば良く理解できるだろう。

友人のアメリカも、最近少々敵対気味の中国も、日本にとっては同じように不利益になってきていて、これは「安定」が崩れてきているからだ。

更にもう少し言うなら、良好な関係でも日々によって、またその日の心情によってもその関係の中では密度の増減を繰り返していて、これは悪化している関係に措いても同じで、やはりその関係の悪化する度合いは日々刻々と、また相対する他者との関係の中で密度の増減を繰り返している。

それゆえ「いつまでも仲良くしたいなら、仲良くしないことだ」とする言葉は確かに「理想」ではあるが、そんな関係は地球で人間として生きるなら、有り得ないものと言うことが出来るだろうし「安定」と言うものもまた同じことだろう。

私は拝金主義者の上に守銭奴だから、儲かることも好きだが、それ以上に損をしないことが大切だと思っていて、その意味では敵味方の区別がなく、大きな儲けはどこかで人の恨みを買いそうだから、人が気づかない程度、「仕方ないかな」と思う程度の利益をいつも望んでいて、しかも尚且つ人間関係は、プラスマイナス0になることが望ましいと考えているかも知れない・・・。

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「好悪の等価性」

    定家卿に、下の句で、上の句が何でも、合うものが何か有ったら、教えてくれ、と言われて「それにつけても、金の欲しさよ」~~♪

    平安時代から、日本は貨幣経済だった。唐銭も意図的に輸入していたが、本邦では金銀の産出が多く、貨幣経済が、早くから発達していた。K国は、諸般の事情で、物々交換経済が近代まで主流だったのは、イザベラバードの「朝鮮奥地紀行」でも言及されている。
    現代でも、貨幣と実物が連動している分野では、特段の問題は無いが、想像上の利益や貨幣代替物~虚業(笑い)では、発想で、莫大な銭貨を得て、巨万の富を蓄積するものが現れるが、その所為とばかりは言えないが、その逆の貧困層が、世界中に発生して、人類を色んな意味で、危機に追い込んでいる面もありそうだ。
    報道によれば、昨今の新型肺炎では、特に欧米の罹患者~死亡者は、経済的弱者がそうでない者の2倍以上の出現率らしいから、ビールスは社会の在り方に根本的な再考を求める機会をもたらす可能性が有るが、社会を主導する人々には、そんな発想は無いかも知れない~~♪

    荘子には:-
    君子の交わりは淡きこと水の如く、
    小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し
    と有り、

    論語には:-
    朋有り、遠方より来たる、亦楽しからずや
    と有るが、

    社会と個人の関係では。2,500年前から、発生している問題を未だに、解決できずに、乃至は、解決しない力学が働いているかもしれない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私はどうも善人より悪人の方が付き合い易い気がします。
      味方や友人の関係を維持するのは膨大な労力と時間を要する為、それだったら敵として安定さへしていれば、その方が妙な気を遣ったり、たまには奢ってご機嫌を取らずに済むだけ楽かも知れないと思う、そう言う人間性の無い冷たい性格の人間な訳です。
      人を信じられるか否かはその重要性と、彼の環境に拠って見えてくる。
      裏切っても裏切らなくても、結局は同じ人間なのですが、裏切れば恨み、裏切らなければ信じる。
      どう考えても等価交換思想でしかない。
      こんな事で成立している友人関係や恋人関係など何の価値も無いと思っている訳です。
      どこからどこまでが本心で、どこからが虚なのか全く見えない在り様こそ、憧れますね。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「中性社会」

    今は、物理法則を無視した、空論を弄んで、理論とか言っているが、具現性は全くない。騙し絵みたいなもので、二次元では成立するが、三次元では成立しないものを、あたかも成立するかのように言い張っているだけ。
    言語は文化で有り、歴史であり、勿論基本環境から来ているのであるから、本来的な完璧な共通語~翻訳と言うのは有り得ない。
    支那語の様に、解釈は多様だが、共通理解部分もそれなりに有って、当座の用には何とか使えないことは無い、程度だと思ったらいい。

    中性化はしているが、生物は中性では生きていけないのであり、中性はたとえ増加しても、例外であり、単なる仇花である。
    言語による意思疎通が無ければ、社会的に婚姻を続けて、経済活動を継続するのは極めて困難だだが、生きる環境と経済が有れば、或る意味動物園の飼育舎のような環境に居れば、少しばかりの愛情が有れば、繁殖は継続的にできるだろうと思われるが・・中性なら、前者は可能だが、繁殖は出来ず、一代限り、と言う事になる。

    タカラヅカもカブキも舞台で見るのは楽しいが、家庭で継続的に生きることは不可能だ。
    アブラムシもアメーバも、暫くの間は繁殖が可能だが、中性のままだと(異性が居なければ)世代交代は出来ない~~♪

    昔ラオスに行って、小さなホテルに、レディーボーが沢山居て、ビックリしたが、闘争的でなくて、仕事は何でもこなして、それなりに良い、と言うことであった~~♪

    最近、母数は不明だが、上位に位置付けられた高得点の人気タレント(?)の顔が、どれもこれも似た感じで、悪い夢を見て居るようだった、あのまんま、中年になって老人になって行くのが想像できない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      おカマやお笑い芸人がテレビを支配しているのを見て、こんな劣悪なものが何故?と思いますが、結局のところ男女同権と言う欧米思想の弊害と、相対的に女性の権利向上、それに男性の弱体化が招いた社会現象なのでしょうね。
      唯、昔から日本の女性は凄かった・・・。
      結構自由奔放が許されていましたから、例えば初めて日本に来たスペインの宣教師などは衝撃だったと思います。
      その上に経済が悪くなって稼ぎが悪くなったお父さんの地位は下降線を辿り、男の価値が中性にも劣るようになってしまった。
      私は実はこうした中性が苦手で有り、近くにいるとどうリアクションして良いのかが解らない。
      それに妙に身の危険も感じる。
      君子ではないですが、危うきに近寄らずで避けて行く現状が有ります。
      日本も随分自由と言うか、少し過ぎたところまで来てしまいましたね・・・。

      コメント、有り難うございました。

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