「罪の入り口と出口」

古代日本に措ける最大の罪とは「天津罪」(あまつつみ)と呼ばれるもので、その罪は8つの具体的な行為を指している。

「串刺」(くしさし)とは他人が開墾した田に串を刺し、そこが自分のものだと主張することであり、言うなれば人の田を横取りしようとする行為であり、「畔放」(あぜはなち)は畔を壊して田の水を流してしまうこと、溝埋(みぞうめ)は用水路を埋めて田に水が入らないようにする事、「樋放」(ひはなち)は田に水を引くための「樋」を壊す行為である。

また「頻蒔」(しきまき)とは他人の土地に種を蒔く行為であり、この他に「生剥」(いけはぎ)と言って、まだ使える馬を殺して皮を剥ぐことも大きな罪とされ、更には「逆剥」(さかはぎ)と言う罪では、死んでしまった馬の皮の剥ぎ方を誤りその皮を無駄にすることを指し、「尿戸」(くそへ)とは農耕神を祭る祭祀場を汚す行為を指していた。

このことから鑑みるに、日本の古代社会に措ける罪の概念とはすなわち、「農」に関わるものが殺人や暴行よりも重くなっていたことが分かるが、これは何を意味しているかと言えば、その当時の大衆社会に措いて、殺人や暴行が「農」を犯す者より少ないことを示していると言える。

つまり「法」と言うものは、それを犯すものが多くなれば法としての形を取り、尚且つそれでも対象となる行為が減少しないとき、「罰則」が定められるからだが、古代日本に措いては、いかに農耕が重要な位置にあったがこうした「法」によっても認識できる反面、このような「天津罪」を犯す者が如何に多かったかも、その背景からうかがい知ることができる。

だがしかしこれほどに重要な地位にあった農耕とその文化だが、貴族社会では全く農耕と無縁な生活が営まれ、例えば紫式部などは地方を旅したおり、「田んぼの中で農民が後ろへ下がるような仕草で、見た事も無い踊りを踊っていた」と記しているが、これは「田植え」だったに違いなく、このことから紫式部は「田植え」を知らなかったと言うことになる。

そしてこの「天津罪」の興味深いところは、この罪の結果が「個人」に帰結しないところであり、こうした罪が為されるとどうなるかと言えば、神が怒って災害が発生すると考えられていた点である。

日本神話では「素戔鳴尊」(すさのうのみこと)が高天原(たかまがはら)でこの天津罪を犯したために、天照大神(あまてらすおおみかみ)が怒り、「天岩戸」(あまのいわと)に閉じこもってしまう記述が出てくるが、この神話から見えるものは、「天津罪」を犯せば太陽が昇らなくなる、若しくは天候不順が起こるぞ、と警告する意味を持っていたに違いない。

それゆえもし私が「天津罪」を犯した場合、私はそれによって時の朝廷や、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって逮捕されることは無いが、そのかわり、その年に起こった地震や気象災害が全て私のせいだとされるのであり、これは牢屋へぶち込まれることが無い反面、ある種の無限責任を想起させるものであり、こうした点を考えるなら、古代日本の「罪」の概念はその原因と結果の2つに対処する方法があるとするなら、「原因」に対処したものだったと言うことができようか。

つまり犯罪を犯した者に対する罪の概念ではなく、犯罪を犯させない概念がそこに存在し、しかも罪に対する社会連帯、若しくは全体責任のような形が見られることである。

また罪の概念としてキリスト教文化、イスラム教文化は、基本的に人間の性悪概念から罪と言うものが定義されるが、古代日本で見られる罪の概念は人間と罪の分離である。

手が泥で汚れても洗えばまた綺麗になる。

人間もまたこれと同じであり、本来神々のおわします日本にはその決定的な悪は存在し得ず、人々の犯す罪は「穢れ」によってもたらされたものであり、その穢れを祓えば人間は善良なものであるとする考えが古代日本の罪の概念であり、これは薄く弱くなっていても、言葉にならずとも、現代日本社会で連綿として生き続けている「日本の概念」である。

「罪を憎んで人を憎まず」とは難しいものだ。

人を殺した者には応分の処罰を、また人殺しを許せばその人間がまた人を殺すだろうし、他の者も同じ事をするに違いない。

であるなら人を殺した者は殺されなければならない。

欧米の宗教は善と悪を区分けしてきた為に「悪」と言う概念を作り出してきたが、古代日本は人間に対して「悪」を作り出さなかった。

このことの持つ意味は限りなく大きい。

法や悪と言った概念は相対的なものであり、本来であれば人が人を裁くことはできない。

従って「悪」と言うものは「善」や「普通」であることに対する「異端」でしかなく、例えば殺人にしても、その殺された人間が一生に食するであろう他の生物からすれば、人間が死ねば死ぬほど自身たちの生存のチャンスが広がるのであり、彼らにとってはその事情など関係なく、人間が死ぬことは「善」となる。

私たちが「法」と呼んでいるものは人間にとって都合の良い「法」でしかなく、従って不完全なものでしかないが、近代に措いて世界を席巻した欧米の価値観は、法や慣習、文化についても人間の性悪概念を基調に、片方の「善」の概念を積み上げてきたが、その「善」は東西冷戦の終結とともに、悪の概念が消失したことにより、相対的に「善」の概念も軽くし、こうした中で「悪」の概念に傾いた価値観から、更に深い「悪」を求める社会を招いてしまった。

つまり国際社会はこれまで、罪と言うものがあって、その入り口と出口があるとするなら、出口を塞ぐことに終始し、入り口を塞ぐことをしなかった。

そのために経済と言うものによって劣化し始めた社会は、絶対的「善」から相対的「善」へと価値観が変遷し、このことはより貧弱な悪、劣悪な悪をして自身の「善性」を確かめるような風潮へと変わっていき、その中で罪を個人へ集積させるようになって行ったのである。

そしてこのことは欧米文化が持つ法的概念でも、建前上は「罪を憎んで人を憎まず」だった概念、日本に措いては薄くではあるが、どこかで深く大衆の価値観に根ざしていた同じ概念を全く消し去り、今日に至っては僅かな言動でもすぐに個人が攻撃され、その小さな罪をして、個人に対する全ての人間性までもが剥奪されるかの有様となってきている。

だが罪の本質とは、本当にその個人が全ての責任を負うべきものであるかと言えば、例えば家族環境、また仕事の関係、夫婦関係もそうだが、そうした社会的な側面が全く関与しない犯罪と言うものは存在せず、その意味に措いては罪と穢れを分けて考えた古代日本の有り様は、ある種の本質のように私は思えるのだが、これでは甘いだろうか・・・。

「罪を憎んで人を憎まず」、今では古い価値観になってしまったが、現代の日本社会にあえて私はこの言葉を進言しておこうか・・・。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「罪の入り口と出口」

    本源的な意味で、善悪は無いかも知れないが、国家~社会~家族~個人などを維持するためには、善悪と言うより、行為に対する賞罰と言う事で、それが転化・変遷して善悪判断が生まれるかもしれない。

    日本では縄文時代が一万数千年続いて、終末期に原初的な農耕栽培は行われていたようだが、その後に続く、弥生時代までに、稲作が、相当発達して、盛期ごろには、渡来民も多くなり、支那朝鮮南方の文化文明も一緒に来て力を持つようになったのだろう。
    その以前は、生物としての利己主義が普遍的に行われていて、それが相互に劇的・強烈な作用を抑制していた風だが、稲作が行わるようになってから、富が蓄積・集中出来ることに成ってから、刑罰が、社会の防衛の為に力を持つようになったのだろう。以前からあった、神々への畏れも滅びはしなかったが、日本列島に住んでいた人々は未だ良いが、外来の文明人は、古来の自然の一部としての自覚が薄めらて、道に迷っているかもしれない。

    「罪を憎んで人を憎まず」は被害者が、自分及び係累で無い時は、採用出来るが、それ以外は、画餅にも見える(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      「罪を憎んで人を憎まず」は理想論的に考えられますが、一つの形なのだろうと思います。
      ちょうど孔子の「礼」などが同じですが、心で何を思っているかは関係が無く、現実に対する在り様を対外的に形にする時の作法と考えるべきだろうと思います。
      また人間の心には統一性が無く、例え恨みでもこれをずっと維持する事は難しい。
      それゆえいつかは感情が薄れた時が来るなら、それを今に持ってきて社会を安定させる「形」と言えるのかも知れません。
      後世、孔子や儒教を思想と考え、その形の在り様を理想としましたが、逆に言えばそう言う気持ちになる事が難しいから理想とされた。
      心を押し殺して「形」に従う在り様を美しいと考えるべきなのだろうと思います。
      この辺を間違えるから仏教も儒教も「ねばならない」になり、その意図から遠く窮屈で恐ろしいものになって来たのではないか、そんな気がします。
      「仁」は決して悪しき心を否定してはいない。
      「痛みを知る事ができる平常性」ですから、この意味では心は悪でも、外に出る形が善で有れば、これもまた「仁」であり、単純に何も考えず善を為せる者より、その理解は深いかも知れない・・・。

      コメント、有り難うございました。

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