「都会への発信」

深い山を分け入る訳ではなくても少し山に入れば、周囲の小さな雑木などに巻きついた、細長いスペードの真ん中に折り目が付いたような小さな葉っぱを付けたつる草があり、このつる草にねずみ色の2cm程のジャガイモ状の実が沢山付いているが、これが「むかご」と言って、このつる草の根を掘って行けば、「山いも」を掘り出すことができるが、「むかご」は畑で栽培している「自然薯」(じねんじょ)にでも同じようなものが実をつける。

しかしこの「むかご」、現在でこそ何か高級食材のような扱われ方をしているが、田舎ではあくまでも「代用品」、粗悪なものとしての位置づけしかなかった。

つまりは基本的に食料がある時代には無視されるものでしかないのだが、太平洋戦争当時の食料のなかったとき、子供達はこれを山で採ってきて、それを茹でておやつ代わりにしたり、また醤油で煮て惣菜代わりとしたものだったが、この「むかご」の青臭さと芋が混ざったような味は、ある種辛い時代を思い出せる「不味さ」である人も多いことだろう。

先日「田舎の食材再発見」なる地域セミナーがあり、誘われてこれに参加したおり、ここで都会から来た料理アドバイザーなる女性が作った、「むかご」を塩で米と炊き込んだ「むかご飯」なるものが出て来たのだが、気持ちは有り難かったが、余りの不味さに私は飲み込むようにして一膳食べるのが精一杯だった。

これは本来食べるものではなく、人に出せる料理ではない貧乏料理だ。

あくまでも非常時であればこそ、仕方なく雑草を食べるのと同じ概念のものでしかないが、近年これを美味いと感じる人がいると言う事は、実に奇妙なことだとしか言いようが無いが、味覚にまで価値反転性の競合が始まっているとしたら大変深刻な感じがする。

人間は現状を維持しようと言う部分と、その現状を壊そうと言う部分の2つの相反する性質が同体になって精神を構成している。

だから価値観は常に守ろうとするものと、それを壊して行こうとする動きが同時に起こって行くのだが、日本のようにバブル経済が崩壊してから以降、あらゆる価値観が混乱してしまった国家に措いては、その価値観が高い方向性を確定できないことから、より劣悪な方向に絶対的なものを見る傾向になり、しかもそこに絶対性を見ることからより劣悪なもの、劣悪なものへと価値観が向かう、これを「価値反転性の競合」と言うが、こうした傾向は本来の大道を否定し、劣悪なものが表となっていく傾向を示す。

芸術で言えばあまりも極端な民芸志向が発生すると、一流のものはそれが一流であることをして否定されるのと同じことが起こってくるが、これは本当はコンプレックスの裏返しでしかなく、つまりは本流の道があらゆる価値観で混乱したら、元々貧相な傍流が一時的には注目されたに過ぎず、「本質」の前には絶対立つことができない。

考えても見れば分かることだが、「山いも」が有って「むかご」が有ったら誰が「むかご」を好むかであり、この場合「むかご」の方が美味いと言う場合は、その脳による自己暗示でしかない。

すなわち人間の味覚もまた脳がそれを感じさせているものであるから、人間にとって本質の味とは常に固定されてはおらず、それが文化的土壌や慣習によって少しずつ変調を起こした場合、どれが美味くてどれが不味いかの基本を失い、そこで自称味覚音痴の食通が、己の歪んだ精神から来る歪んだ感覚で、「これは美味い」と言ったものを信じ込む傾向が出てくる。

そして自分の価値観が無いと、味覚と言うものですらこうした流行と言う虚飾によって変質させられることに気づかず、それを絶対だと信じこんでしまうが、例えばこれまでは本質であった「山いも」が出てきても、精神的に自身で味覚を歪めてしまった者にはこの味の客観的判断ができず、自身の価値観を否定されたくないがために、更に頑なになって自身の価値観に絶対性を信じることになるのである。

ああ、これはいけない。

たまには料理の話でもしようと思っていたのが、また自身の歪んだ価値観で社会を見た話になってしまった・・・。

話を本題に戻そう・・・。

山いもは、例えば「むかご」の付いたツルを見つけたとしても必ずその下に有るとは限らないが、「むかご」が付いたツルの位置を覚えておいて、このツルが枯れた頃にその場所を掘ると収穫できる。

そしてこの場合「山いも」を折らずに掘るのは大変な作業になるが、こうしたことを考えると、斜面に生えているツルを憶えておくと、斜面は横から掘るのでこれは作業が楽になり、比較的簡単に「山いも」を収穫できる。

それから持ち帰るときは「山いも」が折れないように比較的真っ直ぐな木の枝を3本折って、これを「山いも」を囲むように添え、それをつる草で軽く縛って持ち歩くと、家まで折らずに持ち帰ることができるが、この「山いも」を綺麗に洗ったらすりおろし、別にダシの利いた味噌汁を作って置いて、この味噌汁を「山いも」をすりおろしたものの中に適量、恐らくは量的に半分かも知れないが、加えてよくかき混ぜる。

そしてこれをあたたかいご飯の上にかけると、何とも優雅な秋の味覚と言うものになろうか・・・。

またこれと同時に旬の食材で言えば「カツオ」を先に味付けをしないで焼き、冷めたら実をほぐしてそれを千切りにしたたっぷりの大根と味噌で煮ると、これもまた何とも言えないこの季節の味がするが、こうしたものと白菜の一夜漬、それに里イモと豆腐や油揚げ、キノコとニンジンの煮物、更には「アジの開き」などがあれば、これで五菜が揃うことになる。

これらを朱か黒のお膳に、やはり漆器の器に盛って乗せ、それを縁側へ持って行き、なめこの火鉢を脇に置き、織部の杯で熱燗を傾け、夜風にあたりながら星を眺める・・・。

願わくば、目の前の田んぼに舞台などが組まれて、そこで白拍子などが舞えば、もうこの世に未練などないであろう秋の風情と言うものに違いない・・・。

「今都会ではむかごが注目を浴びていて、大変高級な食材になりつつあるんですよ、田舎には沢山良いものが有るんですが、そこに住んでいる人はなかなかこうしたものの価値に気が付きません」

「そこで私達のような都市の視点で客観的にものを見ることが重要になってくるのです」

セミナーで都会への発信を熱く語る、私より少し若いくらいの女性アドバイザーの言葉、しかし私は都会へ発信するために毎日ご飯を食べているのではないのだが・・・。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「都会への発信」

    我が郷里の集落の周りは、早春はフキノトウだらけで、大人にとっては、年一回か二回、その苦みを楽しむものであった、子供の時に食べて懐かしく、早春には、野山で見つければ、取って食べた。
    テレビでは、心待ちにして、雪を掘って、野の恵みを頂く、見たいな話の紹介が有るが、江戸時代は知らないけれど(笑い)、雪を掘って食うほどのもじゃない。ついでに、不足がちのビタミン類の補給にもなっている、とも言っているが・・・事実は違う気がする(笑い)
    季節に成れば、スーパーでも田舎の産直でも売っているが、小さくて、葉のふちが黒ずんでいるのが多く、買って食べたことは無い。

    今はデパ地下~スーパーに総菜類が、大量に売られているがどれも、これも「デパ地下味」であり、自分の好みではない。温かい弁当屋さんも、自分が若いころはそれなりに利用したが、諸般の理由で、店舗数は激減したように思える。これも、味が今風なのかも知れないが、当時売だった、家庭の味からは遠く、今は昔。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      全くアホらしい話でした。
      無能な田舎の政治家や住民は都会と言うだけで憧れて期待する。
      そこへ落ちこぼれた三流都会人がやってきて、田舎は凄いと思うけど、結局それはカルチャーショックの一種に過ぎず、ただ珍しかっただけ、と言うよりは余りにも貧しく田舎臭い雰囲気が新鮮に見えただけと言うところでしょう。
      貧しい中で生きている姿にはどこかで真実のようなものを感じるかも知れませんが、それは唯無能で貧しいだけ。
      そこに自分が見たいものを重ねて見るから、凄く見えるだけで、現実には「〇〇は優しや土までも」と言いながら、受けは「人殺し」です。
      素朴の中に狡猾さと卑しさ、仏のような面持ちの中に偽善と利に腰をかがめた謙譲が在る。
      そして憧れて来てみれば、都会よりはるかに深くて寒いものが底辺を吹いている。
      過疎は至極当然と言えば当然の結果だと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「Facebookのハザードモデル」

    電車に乗っていて、近隣の人々が、何をしているかと言えば、スマホでゲーム~SNS。近所を散歩していると、自転車を跨いだまま~ベンチに座って~道路の真ん中に立ったまま(笑い)スマホで、何かを遣っている。
    好きな事を好きなだけ遣ればよい。人生をいかに使うかは、勝手だ、自分はもっと別の事をしたいと思って居るが~~♪

    暫く前に、テレビのゲームのような体験番組(?)らしい事に出演していた、その道では、それなりに有名な人だったらしいが、亡くなって、誠に気の毒であったが、SNS上の誹謗中傷が原因ともいわれているらしい。

    こんな通信が流行って、未だ20年程度、人は未だ免疫が出来ていないだろうから、そう言うことに敏感な人々が、犠牲になったのだろうけれど、どれぐらいで集団免疫が形成されるかは不明だが、そんな時が来れば、この通信形態そのものが、小さな道具の一つになって、或る意味、そのあるべき姿になっているかもしれない。

    自分は全く関係が無かったが、「ポケベル」は一時可なり流行ったが、忽ち消滅した。

    よくは知らないが、テレビを見て居ると、マサイ族も、携帯を持っているらしいが、多分、ごく少数だと勝手に思って居る。衣食住の足しに成らない。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      必要が無ければ残らないと言う訳ではないかも知れませんが、現代社会は余りにも情緒的で、これは裏を返せば「飽和」だと思います。
      腹が減っていればご飯だけでもおいしいですが、満ち足りていればこれに更においしいステーキなども付いていないと食べる気はしない。
      そしてその上を行くと気分が大切になって行く。
      店主の愛想やウェイターの態度、店の装飾に消費が左右される。
      これは本当は腹が減っていないと言う事なのですが、同様な事が社会全体を覆うと、情緒優先社会になり、気分や楽しい事が重要になってきます。
      「自分へのご褒美」も毎日になるとご褒美にはならない。
      これからあらゆる意味で貧しくなって行く日本社会では、現実と情緒のはざまで葛藤が始まり、静かに現実に圧されて気分、情緒の部分は粛清されていく。
      Facebookなどはまさにこれなのですが、今にカードシステムも二重になって行くだろうし、こうしたブログと言う媒体も衰退していくでしょうね・・・。
      既に衰退は始まっています。

      コメント、有り難うございました。

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