「婚姻」・Ⅰ

結婚(marriage)の条件は4つ有る。

1つはこの関係が社会から肯定され、認められる性関係であることだが、一般的に性関係が社会に措いて秩序を失うと言う事は国家の最小単位となる家族の、その核となるものが曖昧になることから、性関係の秩序の崩壊はその国家そのものの秩序の崩壊へと繋がる意味を持つ。

人間社会には多くの性関係が存在し、「不倫」「同性愛」「近親相姦」「暴行」「売春」、さらには例え本人同士が共に未婚で、双方が同意していても、将来的に婚姻を伴わない性交渉を複数の相手と繰り返している等は、犯罪ではないが社会から積極的肯定を得られない。

しかし婚姻した夫婦に付いては、社会から唯一その性交渉が積極性を持って是認される関係と言える。

また第2に、原則として婚姻関係は「永続」をその概念に包括しているが、近年の離婚率の高さからこうした概念は、もはや存在する余地のない条件と考えがちだが、婚姻と言う事実が発生する時、その愛する気持ちや、関係を持ちたいと思う意思に措いて、1年、2年と言う期限付きの婚姻関係は認められていないことから、如何なる場合に措いても婚姻関係の前提は「永続」とならざるを得ないが、永続の概念は「理想」であり、従って「現実」の関係破綻を超越してこの概念は成立するものではない。

そして第3には、婚姻関係は「公」が認め、これを保障する関係であることだ。

結婚は一般的に儀式や披露を伴った社会、地域慣習によって、地域社会が関係を承認すると共に、婚姻届などを国家に提出する場合は「国家権力」に、そして教会などに届け出る場合は国家、若しくは世界的な「権威」に対してその男女が婚姻を認めさせる意味を持っている。

従って、こうした婚姻関係が成立した場合、概念として「世界」がその関係を承認したとも言えるのである。

さらに第4、婚姻には自動的に付帯する契約が有ると言うことだ。

個々の夫婦が夫婦間で特に契約を取り交わさなくても、社会慣習や法律によって夫婦に関わるあらゆる法的関係が揃っており、財産分与やその権利、また扶養などの義務、夫婦の子供の規定、離婚した場合の子供の親権に付いての協議の仕方や、財産分配の有り方などが特に本人たちが認識していなくても、婚姻と言う事実によって全て成立する。

従ってこれは親子関係もそうだが、婚姻によって得られる権利と、自身が果たさなければならない義務に付いては、権利だけ取得して義務を放棄することが認められていない。

つまり婚姻に措ける義務の放棄は婚姻関係の消滅事由となり得る。

こうした婚姻、ではその形態は世界的にどうなっているかと言うと、その形態は多様であり、まず夫と妻の数的な面から見ると、ここには「一夫一婦制」「一夫多妻制」「多夫一妻制」「集団婚」などが歴史的に存在している。

まず「一夫一婦制」だが、こうした男女それぞれを1名ずつとする婚姻に関しても、例えばキリスト教の一部では異教徒との婚姻を禁止していることから、もし結婚相手がキリスト教でない場合は、洗礼を受けなければ結婚が認められない。

それに敬虔なカソリックでは離婚を認めない場合があり、その為こうした地域ではあらかじめ婚姻と言う形を採らず、事実婚に留めておけば離婚と言う事実もまた発生しないため、婚姻しない内縁関係が多発し、それによって結婚の概念が軽くなり、男女の貞操観念が著しく乱れて行く事例も発生している。

規制を厳しくすれば不正が減少とするという、平面的な考え方ではこの結果は必然とも言えるものだ。

またフランスではこの逆で、結婚は「契約」とされていることから、例えば教会で式を挙げようとも、本人たちの間で契約書が取り交わされない限り結婚は成立しないが、親子と言う関係は子供が生まれながらにして絶対的な関係であるのに対して、夫婦は対等な横の関係と言え、この場合は本来「契約的」な概念に近いのが正しいあり方かも知れない。

冒頭の「永続」もそうだが、「愛する」と言うこともまた一つの理想に過ぎず、それは決して普遍的な継続性を持つものでは無く、「愛」も「契約」もその概念は互いに入り乱れたものであるのかも知れない。

 

「婚姻」・Ⅱに続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。