「婚姻」・Ⅱ

これに対して例えばイスラム諸国では「一夫多妻制」の婚姻が一般的だが、本来の考え方として、一夫一婦制こそが絶対的な婚姻の価値観とされるその根拠は、男女の「平等性」と言う概念から発生しているもので、平等の概念では受益に関して余計にそれを得るものは、受益の少ない者に対して弁明しなければならない。

また不平等を受けたと概念した者の申告がないと、平等と言う概念は成立せず、すなわちイスラム諸国のより多くの女性がこうした婚姻のあり方を不平等と感じないと、まずこうした婚姻に関して不当性と言うものが発生せず、従ってこれを第三国の慣習や法をして否定することはできない。

イスラム諸国の婚姻は男子13歳、女子9歳からが事実上認められ、婚姻に際しては男性側の家から女性側に「結婚金」が送られるが、これは人身売買の概念よりは日本の結納金、娘を提供した父親に対する感謝の印と言う考え方の方が正しいだろう。

そしてイスラム諸国の婚姻で最も重要視されるのが花嫁、花婿の処女性だが、このうち特に女性に対する処女性の重要性は男性のそれよりはるかに厳しく、もし結婚した女性が処女でなかった場合は、その婚姻そのものが無効、消滅する。

だが一方でイスラム諸国の婚姻では離婚も認められていれば、再婚も認められていることから、こうした婚姻の厳しい部分は初婚の場合を指していて、現在殆どのイスラム諸国では結婚年齢も女性16歳、男性18歳と言う具合に、キリスト教や仏教文化圏とほぼ同等の状態となっていることを考えるなら、離婚が認められているだけ、カソリックの概念よりは自由度が高いとも言える。

さらには結婚に関して妻の側に結婚金を渡さなければならない事実に鑑みるなら、そこには経済力と言う、婚姻に関して最も重要な部分をして妻の数が決まると言うような、大変現実的な流れも感じることができるのである。

また「多夫一妻制」、これは恐らく今でも少ないながらも現存していると思われるが、例えばチベット地方では妻は一家の「嫁」と言う概念が有り、ここではもし3人の男の兄弟がいる家であれば、この3人の兄弟は長男が迎えた妻を共有する仕組みがあった。

この場合子供は兄弟の誰の子供か分からなくなると言う現実も起こるが、一族が共同して暮らす中では、そもそも子供が兄弟の誰の子供かと言うことより、一族の子供としての概念が強かったのではないかと思われる。

そして最後に「集団婚」だが、こうした考え方は実は学問上の概念であり、人間社会が個人の所有物を持たない時代に措いては、妻と言う概念も無く、そこでは誰とでも性的関係を随時結んで行ったのではないかと言う推測が成り立ったのだが、私達の祖先であるホモ・サピエンス以前の人類であるネアンデルタール人に有っても、死者を弔い、そしてそれに花を手向ける優しい気持ちがあったことを考えるなら、後世少しばかり多くの道具が使えるようになったからと言って、古代の人類をまるで動物以下のように推測するのは、主観では有るがとても無礼なことだと私は思う。

それよりむしろ19世紀後半、資料的に正確な根拠を持ったものが少ないので具体的な地名は避けるが、ユーラシア大陸のほんの一部の地域では、50軒程の村で、始めは4、5軒の家から始まった家同士の性交渉の解除状態、つまりはフリーセックス状態がやがては村中に蔓延し、その状態が30年近く続いたらしい記録の方が、事実上の「集団婚」と呼べるのではないかと思う。

ここでは子供は両親と暮らしてはいるが、その夫婦の子供ではない場合もある訳で、長い間村中こうした関係になり、その関係ゆえに秘密が保たれたのではないかと思われるが、このような有様を目にして大きくなった子供達は、次々家を出て村には帰らなくなり、そしてこの慣習は消滅したが、1960年代アメリカで流行したヒッピー文化で「自由」に執着した若者がフリーセックスを提唱した事と、この概念は根本的に異なるものである。

婚姻は性的な関係が重視される余り、どこかでは生物的な「子孫を残す」と言う現実に視点が行ってしまいがちだが、実は生活していく、生きる、と言う意味に措ける共同行為でもあり、互いに補完しあって、より豊かにまた精神的にも支えあって行こうと言う、精神性がその基本なのである。

ちなみに1994年、G・P・マードックが著した「社会構造」によれば、厳格な意味での「一夫一婦制」は世界人口の5分の1の地域でのことで、残りの5分の4の地域では、一夫一婦制と一夫多妻制の混同となっていると記されている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 「婚姻」I・II

    「この世はウソでできている」の池田清彦によれば、山極寿一は、人間が人間らしくなった特徴として、家族で食事をすることと、セックスを隠す(隠れた場所でセックスをする)事を挙げている。

    可なり、面白い着眼だと思う。

    結婚生活は、愛情とか、テツガク的な話が多いし、最近はハウツーものが多いけれど。
    愛とは難しいもので、時代~状況と共に変遷する。

    昔日、モスレムのニッカ~ニカー(婚姻の契約式~婚約式見たいなもの)、内輪の披露宴(舞踏会?)大勢を招待する、椀飯振舞などに参加したことが有るが、良い経験だった。
    親しくなった、可なり知的な職業の何人かに、奥さんは何人いるかと、聞いたが、「一人だけでも、大変なのに」それ以上は、ご辞退申し上げる(笑い)と言う事であった~~♪

    1. シビロコウさま、有り難うございます

      婚姻の概念がどの時代も同じではないと言う事なのですが、もっと言えば地域に拠って細かい時間経緯でも差異が生じ、でもそれはその地域では絶対的な概念として考えられている。
      婚姻の制度は男女の関係を社会がどう言う形で認めて行くかと言う事でも有りますが、この根底には「国家は人なり」と言う哲学が無ければ、婚姻は単なる快楽の肯定に終わる。
      今日本は制度が欧米化し、婚姻の価値観は下落している。
      ちょうど極端なカソリックでは離婚が認められない為、結婚をせずに「お試し期間」の関係が増えて来たのと同じかと思います。
      法的に婚姻に縛られずに、快楽だけを得られればそれで良い、と言う事で有れば婚姻は減少する。
      国家は人なりの哲学が崩れると、社会の根底が崩れて行く訳ですが、この傾向は国家が衰退、滅亡時期に多い傾向と言う事になります。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「言葉の醸成」

    昔、支那の戦国時代に、一人の老婆が、将軍を訪ねて、倅に、余り優しく、人間味を以て接しないでくれと、頼んだ。

    その老婆には、倅が三人居たのだが、上の二人は、すでに戦死していて、今までの様に接して貰うと、意気に感じて、将軍~国家の為に死力を尽くして、きっと、又戦死するであろうから、そうならないように、使い捨ての兵士として、扱ってもらいたい。そうすれば、キット、軍役が終わって、生き残って、故郷に帰る事が出来るに違いない。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      言葉が意味を持つのは環境だと言う話なのですが、時間経過に拠っても、その当初感じていたものとは違った感覚ができてくる。
      それゆえ「その時の言葉に縛られるな」「或いは「その時の人の行動に縛られるな」と言う話でも有ったかと思います。
      結局のところ、他も全て自分が概念しているものの為、それを含めて「自分」でしかなく、その自分は何に影響されているかと言えば、その時と場に何が有ったかで常に変化する。
      言葉とは最も当てにならないものにして、最も信じ易いものでもあると言う話でした。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「通貨の仮想性」

     明治維新は、何とか遂行できたが、新政府は、空手形を切りながら、江戸幕府を打倒したが、実際政治を始めるにも、全く金が無かった。そうこうして居る内に、財政に詳しい面白奴がいると言う事で、福井藩の三岡八郎(由利公正)を抜擢して、新政府の財政を担当させた。
     それで彼は、日本初の本格的な紙幣「太政官札」を発行して、ゼロから数千万両の金を一気に生み出した。
     その時、その太政官札は、彼が紙の産地である越前だったことも幸いしたかもしれない。
    世の中には、知恵の有る者が、居るものだ~~♪

    平時は、年功序列で良いが、存亡の時~戦争の時は、大抜擢人事を断行して、相応しいものを相応しい地位に付けることが肝心だ。

    太平洋戦争開戦直後、東郷平八郎と若かりし頃、逢って感銘を受けた、チェスター・ニミッツ元帥は、当時、序列28番目の少将から中将を飛ばして大将に昇進し、太平洋艦隊司令長官に就任した。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      基本は物品の等価交換なのですが、これを簡略化し平易にするために通貨が発生します。
      つまり初めから「代用品」な訳ですが、代用品が信用を得れば漠然とした物品の総体価格より視覚的判断がし易い。
      それゆえこうした通貨もどんどん代用の度合いを深めて行く事になります。
      2014年は麻生大臣でしたが、このベラんめー議員がどうして財務大臣なのか未だに私は理解出来無い。
      麻生氏は経済など全く解ってはいないし、地方財閥のお坊ちゃんが議員バッジを付けているようなもので、今の安倍政権でもこの感じは全く変わっていません。
      それに危機の時には優秀な人材が現れて救ってくれる。
      そう思いながら、民衆は毎度々々期待を裏切られ続けています。
      もうそろそろ目を醒まさないとシャレにならない気がするのです。

      コメント、有り難うございました。

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