「曖昧な境界」・Ⅰ

人間はその存在の中に、常に現状を守ろうとする部分と、その現状を壊そうとする部分の2つの相反したものを抱えながら生きている。

そして現状を維持しようとする性が女なら、その現状を壊そうとする性は男だが、人間は生まれる始めからこうした相反する性によって構成され、結果として例え現状維持で有ったとしても、それすらが既に自然を侵食し拡大を求めるものであるなら、そこにあるものの一切は破壊でしかない。

しかし、それで良い・・・。

物事、森羅万象のあらゆるものの究極の形とは「滅亡」であり、その存在がなくなる事をしてしか永遠の安定と存在は保障されない。

また男と女は基本的に同じものであり、男女の区別はその濃度の差でしかなく、男女を区別しているものの大方の要因はその本人の自覚、しいては社会概念と言うことになる。

つまりは生物学的に男で有るからと言ってそれが男とは限らず、生物学的な女が女では無いのであり、事実性差とは極めて微妙なものでしかない。

性差とは生殖器の有り様に関する差で有るように思われるかも知れないが、人間の男女はこの生殖に関する機能以外は殆ど共通の機能で構成されていて、男だからと言って全てが男の要因で満たされているものではなく、反対に女だからと言って全てが女の要因で満たされて構成されている訳ではない。

一人の人間の中には男の要因と女の要因の2つが渾然となっていて、そのどちらか特性が強い方の性を選択して自分は男なのか、女なのかを意識しているに過ぎない。

それゆえに体は男の機能を有しながら、その精神的構成が女と言うケースやその反対のケースが現れるのであり、学術的にはこうした傾向を「性同一障害」と呼ぶが、これは性差が肉体的な特性だけで決定されない、つまりは男女を隔てるものが性器の差ではなく、「心」であることを示しているのである。

そしてこうした概念がどうして認められるかと言う事に関して、ここにもう一つ、性に関して曖昧な生物学上の実例が存在しているからに他ならない。

「性分化障害」、現在に措いても凡その数は推測でしかないが、世界的には年間1000人を超える確率で生まれてくる、生物学的な男女の性差が曖昧な子供達、すなわち「両性具有」や、内分泌器官的性差の区別が付かない子供達の存在がある。

この場合医学上も男女の性差はつけられないが、その子供は間違いなく男女どちらかであることは間違いない。

しかしそれが生物学的に特定できないとしたら、男とは何をして男と言うのか、女とは何を基準にして女なのかと言う疑問が発生してくる。

事実日本の症例でも男性器の特性を持って生まれながら、思春期になっても幼児期と変わらぬ、いわゆる性器の未成熟となり、反対に乳房が膨らんでくる人の症例や、殆どの身体機能が女性として生まれながら、膣が無い女性、この場合子宮は存在していている場合が多いが、こうした症例が出てきた時、男女と言うものの区別はひとえに自身が「自覚する性」と言うものでしかない事が見えてくるのである。

だから本質的には「性同一障害」と「性分化障害」は区別されるが、「性分化障害」の流れの端末に「性同一障害」が存在すると考えられるのであり、男女と言うものの相対的認識が社会的な概念と相対したもの、すなわち自身と言う「個」を認識するには「他」が必要なことと同じであるなら、その個人が男女を自覚する場合には、社会の概念する男女によって自身が決定している過程が存在することから、男女と言う概念は極めて社会的なものなのである。

ただ「性同一障害」の場合、これは生まれてからの環境やその状況と言うより、先天性の特性が強く、こうしたことから考えられることは、性の概念は遺伝的に蓄積されたものによって、現代社会が薄く影響を受けるものと考えた方がより整合性を持つのかも知れない。

ちなみに「性分化障害」で最大の症例は男性機能も女性機能も全て揃っている場合があり、これは症例としては少ないが存在しない訳ではなく、この場合は記録には載っていないが、その特性が失われず全て成長した場合、一人で自分の子供を作ることが可能になるのかも知れないが、男女どちらの機能も損なわず成長することは医学的には考えにくい事である。

また「性同一障害」を考えるなら、ここに「同性愛」と言うものの存在も無視できないものがあるが、同性愛は障害と概念されない。

つまりは同性愛は嗜好の問題であるからで、「何が好きか」と言う「他」に対する概念であり、「性同一障害」は自身が男か女かと言う、生涯を通して絶対的な価値観に関する自身の問題であることから、これは決定的な違いが存在している。

同性愛では、例えば自分が女であることを自覚しながら、その性的関心が男ではなく女に有ると言うことで、これが男でも自身が男であると自覚していて、その上で女よりは男が好きと言うことである。

生物は第一次欲求、すなわち「食べること」が満たされ、また自身の周囲に危険が少なくなると、そこでは生殖意欲を失ってくる。

 

「曖昧な境界」Ⅱに続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。