「権威の喪失」・Ⅰ

如何なる力、暴力も権力に措いてもそれが同等の力を持たない者に対して振るわれるなら、その力が振るわれることに対する「正当性」と言うものが必要になるが、一般にこの「正当性」とは形を持たず、また一つの所に留まらない。

ゆえに正当性とは「平等」の概念と同じか、若しくは非常に近い概念と言え、すなわちここでは力を持つ者は力を持たない者に対して、その力と言う有益性の弁明をしなければならず、その有益性を有益性を持たない者が積極的に肯定、または支持することをして、そこに「権威」が発生する。

そしてこの「権威」が無ければ暴力はただの暴力になり、同じように「権威」無き権力が振るわれれば国家の秩序、及び価値観と言ったものが喪失される。

また「権威」はその実態を伴っていなくても、力を振るわれる側が認めている、若しくは実態が知らされず、それによって権威の実質が失われていようとも、力を振るわれる側がそれに気づかず、いわば騙された状態であっても、実態が露呈しなければやはり「権威」となり得る。

すなわち、「権威」とはまた「信」のことであり、ここに力を振るう者を国家とし、力を振るわれる側を民衆とするなら、「信」は国家にあるのではなく、常に民衆の側にあり、民衆がどう判断するかと言うことに尽きる。

従って「信」と言うものを鑑みるなら、「信」を得ようとする者に「信」の存在がなくても、「信」を与える立場の民衆が「信」で有れば事は成立するのであり、ここにおよそ一人の人間であっても、「他」に対して完全な「信」となる存在の成立は不可能である事を考えるなら、ましてや一国のgovernment「政府」に措いては、完全なる「信」を得るに等しい在り様など、存在しようが無い。

それゆえ政治及び政治家の民衆に対する責務とは、如何に根拠無き「権威」を根拠を持ったかのように見せかけるか、また如何にして国民を錯誤させて行くかと言うことが最大の業務であり、責務となる。

つまりは政府に正義や正当性など存在しなくても、民衆に対して政府には正義や正当性が有ると思わせることができれば、それが政治であり、最も望まれる政府の在り様と言うものである。

また民衆に限らず凡その人間の幸福など小さなものに過ぎず、そもそも大きな幸福などと言うものは存在しない。

「良かった」とか「嬉しい」と言う本当に小さな「個」の欲求が感情的に満たされればそれで良いのであって、ただし「他」がこれを叶えようとするなら、そこには無限の欲求が広がっているものでもある。

そして正義と言うものはこうした幸せの反対の感情、いわゆる「悔しい」「憎い」「悲しい」と言った感情の中にある者に対して、そうでは無い者が、その者がその状態に有ることのの正当性を弁明するもの、若しくは幸福の反対の状態にある者が、そうではない状態の者に対して弁明を求めている状態に対する正当性に相当する。

つまり正義とは弁明を求める者に、正当性を説くものであり、社会が豊かなときはこうした正義はそれを与える側も、守っている事を国民に錯誤させることは容易であり、国民もそうしたものを多くは求めないが、社会が貧しくなると、人々の暮らしが苦しくなると、国民から正義が求められ正当性が求められ、または権威に対する説明が求められるようになる。

こうしたことから正義とは「平等」と言う概念をその根底に潜ませているものであり、平等の根底には「自身の怠惰を忘れた僻み」と言う側面もまた潜んでいる。

日本と言う国家は太平洋戦争の敗戦によって、一度こうした権威やそれを支える正当性をすべて失った。

しかし戦後の経済復興、またバブル経済に見るように、日本はこうして失われた権威を経済に求め、経済の発展と共に日本の権威は大きく膨らんで行ったが、バブル経済の崩壊と共に権威は縮小方向へと移行せざるを得ない状況が発生した。

これは権威と言う形のないものが実態の経済、物質的豊かさに支えられていたと言うべきもので、本来権威は「国家の品格」など、その歴史的な背景から連続しているものであることが望ましいが、敗戦と言う事実の前に、それまでのあらゆる部分が否定された状態からのスタートとなった日本は、少なくとも「権威」と言う面ではその質が常に経済に左右されやすい、世界的にも特殊な国家、つまりは国際的にも国内的にも「権威」の正当性が「金」の国家となっていたのである。

勿論どのような国家でもその権威の一部は資本力であったり、軍事で有ったりと言う事は有り得るが、しかし権威の正当性が「金」である場合は、その「金」の目的が必要であり、そこには国家としてのポリシーやアイデンティティ(自己同一性)と言うものが必要になって来る。

そしてこうしたポリシーやアイデンティティと言うものが国民を錯誤させる方法なのだが、このようなものに実態はなくとも、実態が無く曖昧であるからこそ、民衆はそこに自己を重ねることができる訳で、ポリシーやアイデンティティの無い国家社会はただの消費国家でしかなくなる。

また日本は軍事と言う面では、敗戦後常にアメリカの軍事作戦の中でしか自国防衛と言うものが成立しておらず、最終的な国家の自決権は現在でもアメリカ、若しくは敵対するなら中国がそれを握っている状態かも知れない。

しかし1993年くらいまで、つまりはバブル経済が崩壊する直前までは、こうした現実も「金」の力で国民の眼前から遠ざけることができていたが、経済破綻によって権威も縮小してきた日本では、その権威が加速度をつけて崩壊して行った。

これまで金の力で黙らせていたものは、金がなくなったことが分かると、すぐに黙ってはいない状態となって行き、その終結が現在の国際社会に措ける日本であり、日本国民である。

「権威の喪失」Ⅱに続く

※ 本文は2010年11月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。