「歩く・走る・・・」

「runner’s high」、ランナーズ・ハイと言う現象がある。

自分が無理だと自覚しない程度の速度で、5分から15分ほど走り続けると、心拍数や換気量が安定し、何故か気分が爽快になって来ることがある。

この状態を「セカンドウインド」と言うが、ほぼ全てのマラソンランナーが、必ず1度は経験したことがあるだろうこの現象から、更に20分から40分ほど走り続けると、今度はもう幾らでも走れるのではないか、また今の自分の前に敵はいないと思えるほど気分が高揚し、それはやがて恍惚感へと繋がっていく。

この現象、状態を「ランナーズ・ハイ」と言い、このときのマラソンランナーの脳波はシータ波を示していて、これは人間がリラックスの頂点に達した状態、つまりは睡眠に入る寸前の状態の脳波と同じものである。

人類は二足歩行を始めたことにより、急速にその知能が発展し、そして進化したと言われているが、高度に進んだ科学文明は今度は逆に人間から歩く機会を失わせ、移動は飛行機や電車、または自動車、そして階段のの昇降までもがエレベーターやエスカレーターとなった今日、本来で有れば歩くことをすれば全てが解決するであろう心身の病気を予防する為、新たに健康のために歩く、または走る運動をしなければならなくなった。

日本人が1日に歩くその歩数は年々減少傾向にあり、1997年に措ける日本人男性の1日の平均歩数は8202歩、女性は7282歩だったが、これが5年後の2002年には男性が7676歩、女性が7084歩にまで減少し、また職業によっても、例えば男性サラリーマンの1日の平均歩行数は凡そ6000歩、そして専業主婦は3000歩だが、これは日本人が平均80年に渡って歩けたとするなら、男性サラリーマンは一生の間に12万km歩いたことになり、地球を3周した距離に等しく、また専業主婦も地球を1週半、歩いた事になる。

また人間の歩幅はそれぞれの人によって違うが、自分の身長から100cmを引いた歩幅を1歩として、1分間で歩ける歩数はおよそ100歩、この速度で大体1万歩を歩くなら、そこで消費されるエネルギーは300kcalとなり、これを単純に体重に換算するなら、1万歩を歩いた人とそうではない人の体重差は、1年間で5kgと言う事になる。

こうしたことから現在日本では、国民向けの健康対策として1日平均、男性は9200歩以上、女性についても8300歩以上、歩くことを推奨しているが、皆さんはどうだろうか、一日どれくらい歩いているだろうか・・・。

そして普通歩くと言う行為は到着すべき目的があったり、また景色を眺めて散策するなど、一般的にはこれをスポーツとは感じていない。

しかし近年この歩くと言う行為をスポーツとする考え方が現れ、こうしたスポーツの感覚で歩くことを「ウオーキング」と言うが、平均的な歩幅となる70cmから80cmより少し広めに、また早足で歩いた場合、その運動量は破格に増加していく。

「1分間に100歩」歩いたとして、平均歩幅を80cmにすれば、1分間に80mの距離を歩くことになり、この速度で歩くときの消費カロリーは[0・5×体重×距離]で算出できる。

体重60kgの人は、5km歩けば150kcalを消費することになり、平均歩幅80cmで歩くなら、時間に換算しておおよそ1時間歩けば、この運動量に達する事になる。

単純に健康を考えるなら、80mを1分間で歩くペースで、約40分のウオーキングを一週間に3回も行えば充分である。

歩くと言う行為と走ると言う行為は、基本的に全く違った運動だと考えるべきで、そうした意味ではウオーキングは歩く事と走る事の中間に位置する運動だが、これがゆっくりでも走ると言うことになると、運動消費カロリーは更に大きく消費され、こうしたことから始まったのが、自分に無理のないペースで走る事をスポーツと考えた「ジョギング」と言うものである。

「ジョギング」はアメリカの「ジョン・F・ケネディ」大統領が、健康維持と心臓病の予防のために推奨したことに端を発しているが、1960年以降、急速に世界的なブームとなった。

心臓病の引き金になる肥満はカロリー消費が最も有効な予防措置となる。

1週間に消費されるエネルギーが2000kcal以上の人が心臓病になる確率は3・5%、これに対して消費エネルギーが1週間に2000kcal以下の人の場合はその確率は5・8%にまで上昇する。

100kcalのエネルギー消費は、歩くなら30分かかるが、ジョギングなら10分であることを目安に、できれば1週間に2000kcalを消費できるだけの運動をすることが望ましい。

だがジョギングは基本的には歩くことよりは過激な運動となる事、また完全にスポーツの概念を持っていることから、健康管理に充分配慮する必要があり、例えばジョギング中の突然死の原因として、前夜の睡眠不足、または飲酒などが挙げられている事を鑑みるなら、少なくとも前夜睡眠が取れなかった場合や、飲酒した直後のジョギングは避けるべきである。

また食事をした後すぐのジョギングも嘔吐などを引き起こすことから、少なくとも食事後2時間はジョギングをしないほうが良い。

また走ると言う運動は、歩行運動の3倍の負担が膝にかかることから、平常時、階段昇降の際に膝が痛いと感じるときなどは、続けているジョギングを休めば改善してくる場合もあり、このようなジョギングが原因の膝痛を「ランナーズ・ニー」とも言う。

最後に、スポーツには無酸素性エネルギーを利用する無酸素運動と、有酸素性エネルギーを使う有酸素運動があるが、基本的には吸い込んだ酸素のみを爆発的に使って行う運動のことを無酸素運動、そして酸素を取り込みながら継続的に行う運動のことをを有酸素運動と言い、100m走は無酸素運動、そしてマラソンは有酸素運動と憶えて置くと良いかも知れない・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「歩く・走る・・・」

    自分が読んだ本では、確か、5~6百万年前に人類はサルと別れて、間もなく二足歩行を始めたが、2/3位経過しても、脳は容量を増やさず、手は空いていたが、道具を使った形跡はない。但し、長距離の移動が可能になった。そうこうしている内に、石器の片鱗が見え始めた頃、脳は大きくなり始め、石器を多用し、熱量の高い肉の入手が容易になり、急速に脳の大きさも現代人に近づいた、らしい。
    体重の2%の重量にも関わらず、熱量の消費は20%程度、それは今も同じで、体は使うが脳を使わない連中は、未だに元気が良い(笑い)

    散歩と言うダラダラ歩きはするが、ジョギングもウォーキングもしない。最後に自発的に走って、シッカリ記憶しているのは、25の時、友達と温泉に行って、ひょんなことから、100m位競争して走ったら、宿で、陸上の合宿か?って聞かれた。
    それ以降に走ったのは、トランジットで、乗り継ぎに間に合わせるために、不本意ながら、連絡通路を何回か走らされた🏃

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      ランナーズ・ハイの話でしたが、基本的に私はジョギングやダイエットの為に走っていると言う話には、どうも違和感が出ます。

      庭の草むしりをし、バスで行く所は歩いて行き、暴飲暴食をせず、付け合わせ1品で酒を呑んでいる程度なら、人間は無駄な脂肪を蓄えないだろうと思います。

      あっちで楽をして、こっちでも楽をして、そして苦しいダイエットメニューで汗を流すとしたら、二乗の無駄のような気がしますが、それがまた時代のトレンドみたいな話になっていて、なんだかわけが解らない状態と言えます。

      それに猫や犬まで肥満など、話にならない堕落した社会のような気がして、古代ローマやギリシャのような、とても退廃的なイメージしか湧いて来ない事になりますが、全体的に何かがぬるい!
      湿度と高温に周囲を囲まれ、力が出なくなっている感じが息苦しく、気持ち悪い気がします。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「時系列並行情報処理・デジャブ」

    記憶は事実の集合と言う事とは、あまり関係なく脳内で合成される物も多い。因って事件とか事故の現場の記憶も必ずしも、事実に即していないことが頻出する。
    そういう意味では、お互いの記憶を付け合わせて多数決で決めても意味はない。整合性で判断するしかないが、その整合性が、曲者で冤罪の大きな理由ではないかと疑っている。自分に利(理)あり、と思えば、記憶は勝手に作られるようで、それも仕方が無い。

    十数年前から、数次にわたって、最寄り駅が、大規模改修されて、7~8年前に現在の形になった様に記憶するが、古い駅舎の晩年の頃から初期の改修に掛けて、頻繁にデジャブとメジャブが起きて、且つ、過去の色んな記憶が頻繁に湧いてきた。
    全体的にあまり好ましからざる事では有ったが、全く通常忘れて居た、懐かしい~覚えておきたい事どもも、甦りそれはそれで、良かった。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      全部がそうだとも言えないのですが、正夢などは大方時系列並列情報処理ではないかと言う気がします。
      人間は自分を疑いませんから、自分が考えた事は有る意味絶対です。
      ですから根拠もなく確信しているのですが、その意味で言うなら厳密に事象を把握する事は出来ないものなのかも知れません。
      これが宗教ともなればさらに強力な事になり、日々の暮らしの中で、多くの場面に神や悪魔が出現する事になります。

      人間にとって一番重要な知性は、自分を疑う事ではないかと思うのですが、これこそが謙虚と言うものであり、そもそも自分を疑えない者の謙虚は見せかけにしかならない。
      この自分に対する恐れをこそが、大義の畏れに繋がり、生き方に繋がり、そして事象を正確に見る事に繋がるような気がします。

      そしてもう一つ、こうして錯誤と勘違いの上に築かれた記憶ですが、遠くなればなるほどに美しくなり、優しくなる。
      これは「真実」や「事実」と言ったつまらないものを見たいなら間違いかも知れませんが、基本的にこうした錯誤や勘違いこそが幸福と言うものの姿なのかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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