「白いカーディガン」・Ⅰ

その17歳の少年の口から、一瞬天を仰いで後、少しだけ胸を張ったようにして語られた一言は、本当に何気ないレポーターの質問に答えたものだったが、多分このレポーターの質問自体が、本来シナリオにあったものではなかったように私には思えた。

今から30年ほど前だろうか、あるテレビ番組の中で一人の少年が発した一言、この言葉がその後おりに触れて皆に使われるようになったが、恐らく私の知る限りでは、この一言を一番最初に口にしたのは、当時17歳のこの少年だと記憶している。

同番組の名称は忘れたが、当時中堅のシンガーソングライターとしても活躍していた「やしき・たかじん」氏がレポート役を務めたその番組では、親がいなくて施設で育てられた子供達が成長していく姿を取材する内容だった。

そしてそこで取材に応じていたのが、当時17歳の少年だったが、彼の生い立ちは生まれた直後から厳しいものだった。
身も凍るような寒い冬の朝、教会の前で小さな毛布と白いカーディガンに包まれて、彼は発見された。

生後間もない彼は母親によって捨てられたのだったが、既に体温も下がって危険な状態だった彼は、すぐに病院に運ばれ何とか一命を取りとめ、法令に従って彼の名前はそこの市の市長が命名し、そして彼は施設で育てられることになった。

同じように親から捨てられ母親の名前すら分からない子供達と一緒に暮らしながら、彼はそこから学校に通い、そして義務教育が終わってからはアパートを借りて、働きながら定時制高校に通っていたが、そんな彼をこの番組は取材していた。

彼にとって唯一母親の証となるものは、残された白いカーディガン一枚、彼はそれをきちんとたたんで箪笥の中にしまっていた。

そんな少年の部屋を取材していたレポーターの「やしきたかじん」氏、色々話しているうちに彼はこんなことを少年に尋ねる。

「親をどう思う、憎んではいないか・・・」

これに対して少年はちょっと上を見上げるようにして一瞬黙ってしまったが、やがて少しだけ姿勢を正してこう答えた。

「僕は今働いているし、高校にも行っています。同じように施設で一緒だった仲間も沢山います。だから幸せです」
「そしてこんな幸せになれたのは産んでくれたお母さんがいたからです。お母さんが産んでくれなかったらこんなチャンスもなかった。だからありがたいと思っています」

この言葉を聞いた「やしき・たかじん」氏、何度も黙って頷き、かけていた眼鏡を外して涙を拭うと、番組であることも忘れ、「お前、良い奴だな、何か困ったことがあったらここへ連絡してくれ、きっとだぞ」と言い、自分の名刺を差し出し、何度も「また連絡してくれ」と言いながら取材を終えたのだった。

それから後暫くして、結婚式で花嫁が自分の母親に対する感謝の気持ちを伝える言葉として、それまでは「ありがとう」だけだったものが、「産んでくれてありがとう」と言うような風潮が発生したが、私はこうした世の中の軽薄な風潮に、何某かの不快感を感じられずにはいられなかった。

くだんの少年が少し清々しい表情で語る母親への感謝の気持ちと、花嫁が涙ながらに言う「産んでくれてありがとう」ではその本質が違う・・・。

家族とは何か、そうしたことを考えるとき、私は今も産み落とされた直後に捨てられながら、それでも母親に感謝していると言った少年の言葉を思い出す。
会ったこともなく、名前すらも知らない女性、それでも彼にとっては間違いなく存在する「母親」であり、彼の心の中にはカーディガン一枚になっても、そこに「家族」が概念されるのである。

家族とは誰と誰を指していて、その特色とは何か、例えば太平洋戦争以前に概念されていた家族と、現代の日本人の「家族」では決定的な差が有り、また家族の有り様が多様化している近年の傾向を鑑みるなら、そこに限りない不透明、かつ曖昧となってしまった家族の有り様が見え、この国のどこかで根底を流れる、決定的な無意識の曖昧さと重なって見えてしまう。

「白いカーディガン」・Ⅱに続く

※ 本文は2010年11月18日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。