「白いカーディガン」・Ⅱ

初めて核家族と言う概念を世に知らしめたのは1949年、アメリカの文化人類学者G・P・マードックだが、ここで使われた「核」とは物質の最小単位である「原子核」を意味していて、これ以上分割することができない、最小単位としての家族を「核家族」と呼んだのであり、これは夫婦とその子供、または片親とその子供と言った関係までを指している。

従って日本に措ける三世代家族とは核家族の結合家族と考えられていて、親の核家族と長男の核家族が、長男を接点にして結合したものと言うことができるが、日本は太平洋戦争後核家族化が進み、そこでこうした核家族の問題点が多く発生し、また社会やマスコミもこの問題を取り上げたことから、どうしても戦前の家族は核家族が少なく、理想的な家族関係が有ったのではないか、それに比べて戦後は核家族が異様に増加したのではないかと考えがちだが、この認識は改めたほうが良い。

実は日本の核家族化は戦前から始まっており、昭和16年(1941年)でも、日本の家族形態は核家族が53%を占めていて三世代家族は39%に過ぎなかった。

そしてこれが1993年の調査では核家族が59・4%、三世代家族は12・8%であり、確かに三世代家族は減少したものの、核家族はそれほど顕著に増加しているとは言いがたく、またこの核家族化は減少傾向になってきている。

すなわち親となる世代の高齢化に伴う介護の必要性から、日本の家族はこれから出生する子供はいなくても、高齢者と同居して介護をしなければならなくなる家庭が増加するためで、事実1980年代後半から核家族の割合は微弱ながら減少に向かっていて、これから更に経済が冷え込み、経済的困窮人口が増加することを鑑みるなら、核家族は厳しい現実の前に更に加速度をつけて、減少していく場面を迎える可能性も否定できない。

そして我々が核家族化による問題点としてきたものは、実はその少ない家族人数が引き起こしていたのではなく、家族と言う概念にあるその「精神性」の崩壊に原因があったとすべきかも知れない。

つまり単身赴任で事実上の別居となっている父親を家族と考える、このことを否定する者は少ないだろう。
しかし田舎で一人暮らしをする祖母を家族と看做すかと言う点では、恐らく夫と妻の意見は分かれるのではないだろうか。

またその子供にとっては年に1度しか会ったことのない祖母、それをそもそも家族の概念がはっきりしない子供が判断することは難しく、結局そこでは通学している学校などの関係と、万一板ばさみになったとしたらどのような選択をするか、さらには経済的理由でも、例えば夫の父親を家族とするか、つまり絶対的な責任を家族全員が夫の父親に対して感じるかと言えば、これは難しいに違いない。

家族の意見とは何かを考えたとき、確かに戦前であれば道徳的建前が相互監視される状態で社会が動いてきたことから、道徳上の一般概念を家族と言う単位で否定することはできなかったが、現代のように経済が重視される社会に有っては、家族の意見と言えば妻の意見が優先される、若しくはもし多数決の原理を用いるなら、妻と子供が反対すれば、父親はそこで自分の親であってもそれを家族と考える事を否定されることになるのである。

その上で近年増加してきている離婚、そして再婚だが、こうした関係では更に家族が不透明となって行き、例えば夫の前妻との子供と新しい妻の関係、妻の前夫との子供と夫の前妻との子供の関係、さらには妻に引き取られた子供と夫に引き取られた子供の関係など、そうしたことを考えるなら親子、兄弟姉妹と言っても血で繋がった者が家族であると言う概念は一般化できなくなりつつある。

血で繋がらないものが家族となり、血で繋がった者が他人となってしまうことも家族には有り得るのであり、ここで家族をもう一度深く考えるなら、家族は血で繋がっていることをして、また現実に暮らしを共にしているから家族と呼ぶのではない。

そこには自身がどうしても妥協できない精神性、つまりは思いによって、また互いが家族と認め合う「概念」によってしか、家族と言うものが成立しないものだと言うことである。

また極度に成熟した社会は、そこに個人の享楽的嗜好までも個性や自由と看做す風潮を発生せしめ、ここでは例えば30年前までは許されなかったものまでその許容範囲が広がり、公序良俗に鑑みて不道徳とされる男女の関係まで含めて、あらゆるモラルが破壊され一般化し、その中で家族と言う概念よりは経済、また個人の快楽に重点にが置かれた形骸的「家族」も増加している。

子供を連れて結婚し、そして結局夫婦生活に重点が置かれるなら、そこでは間違いなく子供はいつか邪魔になってしまう。

では子供は祖父母の元へと考えても、祖父母もまた自身らの生活を重視することから、特に年齢の若い祖父母ほど孫を家族とする概念が薄く、従って子供は行き場を失うが、子供にとっての唯一の頼りは「血の繋がり」でしかない。

どんなに辛い目に遭っても、そこしか帰る道のない子供のことを考えるなら、安易に肉体的快楽の為に婚姻関係を継続する、また子供に暴力を振るう男を許容するなどは、主観では有るが、私は容認できない。
そしてこうしたことは、ある種社会が共通に含み持つ道徳観でしか留めることはできない。

法は常に結果論でしかない。

いつも人を監視することはできず、従って自分の監視は自分が行うのが最も理想であり、この点で他の事はともかく、子供の命に関わることは最低限のルールを守る社会、または子供の命を最優先させる「家族」の概念が必要となる。

男と女、婚姻関係の乱れは家族の乱れとなり、そして社会のあらゆるモラルを少しずつ壊していく。

だからこそ男と女の関係の乱れは国家の危機に繋がるのであり、ここで冒頭の話に立ち返るなら、寒い冬に捨てていくわが子であっても、そこに自分が着ていたカーディガンを脱ぎ、それを着せて去って行った母親の思いと、後年成長し、そのカーディガンを大切に保管し、自身を捨てた母親に感謝する息子の有り様、私はこの親子の関係をして理想ではないにしても、何か大切な親子と言う最小単位の家族が持つべき真実を見る思いがするのである・・・。

※ 本文は2010年11月18日Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「白いカーディガン」I・II

    自分の核家族の最初の理解は・・
    例えば西部開拓で、別々の幌馬車で新天地を求めて移動している中で、男と女が出会って、定住地を決めて生活を始めて、その内子供が出来る、それが、家族発展の最初の段階で、時代とともに拡大発展して行く、家族の核となるのだから、それが核家族、つまり家族形成の第一段階。

    京大に霊長類研究所が有って、エテコウ類を研究しているが・・・一方今の京大総長である山極寿一は、そこの出身である。
    この研究所は、エテコウを研究している訳ではなく、これを通して、人間を人間足らしめている物は何かと言う事である。

    或る人の説によると、ヒトは、急激に進化して、本能が壊れていて、乃至は能力に見合った本能が未発達のまま、各種能力を獲得していて、例えれば誤動作が多いCPUが組み込まれた機械のような、ブレーキが日和見で効かない自動車のようなものだと言っている。

    或るインディアンの言葉:
    わしらにとって、家族とはとても大切だ。家族全員が、子供たちに責任をもつ。母親と父親だけでなく、すべての家族、祖母、祖父、おば、おじ、姉、兄たちが、みんな子どもたちに教えるんだ。彼らはみんな、お互い気遣い合っている。わしは、政府が長老たちのために老人ホームを建てたのを見て、悲しくなった。いかにも白人らしいやり方だ。長老たちは家族の中心で生きるものであって、ひとりぼっちで死ぬのを待つものではない。長老がいなければ、それはもう家族ではないんだ。家族なしでは、人は何者でもなくなる。大地から離れて根付くことも芽吹くこともできずに、風に飛ばされる種と同じだ。家族はわしらの花壇だ。魂の花壇なんだ。

    今、日本では、ジイジ~バアバと言うふやけた自称他称言葉で、老人は金で孫の歓心を買い、孫は、その葬儀にも出ない。
    世界を見渡せば、辺境の生存線ギリギリの社会に、相互に思いやる家族の原型が比較的残っている、様にも思える。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      人間の本能を壊したもの、壊し続けるものは「社会」ではないかと思いますが、この社会と言う在り様は、とても物理的な原則の側面があり、従って本能の推移、変化の様相は避けられないもので有るように思います。
      つまりあらゆる生物の最終形態は「死」「滅亡」と言う事なのだろうと思います。
      そう言う視点からものを見てみると、アメリカの先住民族「インディオ」の話はそれらしく聞こえますが、実は肝心な事が忘れられている。
      彼らの基本原則は「弱肉強食」の社会背景を持つから成立すると言う事です。
      つまり弱い者高齢な者は適当な時期に死ぬ社会だから、それらは大切にされる。
      しかし既に先端医療と食糧事情などの点で、弱肉強食と言う原則から離れた社会で暮らしていて、これを言うのは100年前と今を同じテーブルで語っているようなものです。
      実はこうしたインディオの話のような形態は、変則的に現代社会でも適応されている部分も有ります。
      それは老人介護施設、福祉施設に拠る老人の、民間家庭からの間引き効果を考えると理解し易いかも知れません。
      民間にはそれを含有できる限度指数が存在し、これを超えると社会が壊れます。
      従って施設等は、こうした既存社会維持のために、適当数の高齢者を集めている訳です。
      基本的にはインディオの言う部分の最低限度は、老人福祉施設や病院などに拠って維持されている側面が有ると言う事になります。
      かなりシビアな話で恐縮です。

      コメント、有り難うございました。

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