「グリーン車に乗る」

横綱と言えば、大相撲力士の中で最高位に君臨している者を指すが、この地位は本来地位ではなく、大関の中で最強の者に対して使うことを許される「尊称」だった。

江戸時代に編纂された伝書にはこう書かれている。

城や屋敷を建てるおり地鎮祭に大関二人を招き、お払いの地踏みの儀式を免許することを「横綱乃伝」を許すると言った・・・。

つまりは横綱の称号は、このような「地鎮祭」などの儀式を、興行の土俵に持って来たことが始まりのようであり、大相撲は神道の儀式からそれが発祥し、またこの儀式が規範となっている。

1789年(寛政元年)11月、大関「谷風」と「小野川」に横綱伝授の儀式披露があり、両大関はしめ縄を腰にまとって土俵入りをしたが、これが当代新しいもの好みだった江戸庶民には大受けし、この江戸興行は大成功を収めた。

このことから「谷風」「小野川」以降も「横綱」の伝授儀式は、大相撲興行に取り入れられていくことになるが、それでも依然「横綱」は地位ではなく、横綱として土俵入りできると言う「名誉称号」の範囲を出ることは無かった。

「横綱」と言う文字が始めて大相撲の番付に登場したのは1890年(明治23年)のことであり、このとき「横綱」の下には「西の海」と言う力士の名前が記されていた。

現在のように「横綱」が最高位の力士と明文化されたのは1908年(明治41年)の事であり、相撲協会によって定められたが、当時の相撲協会は大きなもので言えば関東の団体と関西の団体が存在し、これが統合されて「大日本相撲協会」が発足したのは1927年、当時協会の会長は陸軍大将が務めた。

そして「大日本相撲協会」が「財団法人日本相撲協会」と改称されたのは1958年のことであり、これが現在の「日本相撲協会」のことになるが、太平洋戦争敗戦以降の相撲協会トップは歴代、元力士が務めるようになった。

また「横綱」と言うものに関して、ここにその発祥時に措いて深く携わった存在として熊本の「吉田司家」(よしだつかさ・け)が有り、同家の言い伝えによれば11世紀末、当時の後鳥羽天皇から「相撲行司官」として「追風」の称号を与えられたことにより、「吉田司家」は以後相撲に関するあらゆる意味での権威者となったとされている。

それゆえ「吉田司家」は江戸時代には徳川将軍の上覧相撲に携わり、「谷風」(第4代横綱)や「小野川」(第5代横綱)に横綱の免許を与えたのも「吉田司家」であり、これ以降同家は横綱誕生には必ず関わっていくことになるが、同じように「吉田司家」は行司の最高位「立行司」(たてぎょうじ)の免許伝授も行っていて、こうした意味から同家に措いては江戸時代から「相撲の家元」と言う位置付けがあった。

「吉田司家」はもともと故実や伝統、行儀作法、しきたりなどを代々司る志賀家の流れを後継した家だが、こうして江戸時代から明治、大正、昭和と相撲界の権威者として君臨した「吉田司家」、しかし太平洋戦争終結後、同家は内紛を起こし、多額の借金によって破産状態となったことから、1950年ごろから同家と相撲協会の関係は悪化し、1951年ついに相撲協会は「吉田司家」と断絶した。

第41代横綱「千代の山」からは、横綱の授与式には立ち会うが「吉田司家」は横綱の決定権を失い、ここに横綱の決定権、及び「立行司」の決定権も全てが「日本相撲協会」へ移譲されたのである。

ただこうした歴史的背景から、依然伝統的な権威者としての「吉田司家」には、その後も横綱昇進報告と言う形での挨拶は続けられていたが、これも1986年、第60代横綱「双羽黒」からは廃止され、それまで挨拶に伺えば故実(古い言い伝えや教訓となる言葉)を手向けられ、激励を受けていた、そうした最後の慣習まで消滅して行った。

また前述の「吉田司家」の話でも出てきたが、こうした大相撲の組織は力士達の他、例えば「行司」(ぎょうじ)の世界でも力士達と同じような縦の統制が有り、「行司」の最高位は「木村庄之助」であり、この名称が力士で言うところの「横綱」に相当し、第2位が「式守伊之助」の称号で、こちらはさしずめ力士で言うなら大関となろうか・・・。

「木村庄之助」や「式守伊之助」は共に「立行司」(たてぎょうじ)と言い、行司の中では最高位の格式を有し、腰に短刀を差すことが許されているが、これは相撲の軍配を差し違えた場合などには切腹する、つまりは命がけで勝敗を判断していることを示すためのものだ。

もともと行司の家系には「岩井」「木瀬」なども存在したが、木村、式守以外の家は全て断絶してしまい、従って現在行司と言えば木村、式守以外を名乗るものは存在しない。

そして木村家と式守家の違いはその軍配の持ち方にあり、木村家は軍配に対して握りこぶしが上になるように持ち、式守家は軍配に対して指が上になるように持つ、と言う違いが有るが、しかし両家は全く別のものかと言えば、この両家は別々に生活を営んでいる訳ではなく、例えば「式守伊之助」が出世して「木村庄之助」を襲名するなど、土俵の呼び名以外はそれほど明確な区別があるわけではなく、相撲場所によっては「立行司」が存在しない場合もある。

1993年九州場所で65歳だった第28代「木村庄之助」が定年退職したおり、「木村庄之助」も「式守伊之助」も、共にこれを襲名する立場にまで達していた者がおらず、1994年夏場所で三役格だった「式守錦太夫」が第28代「式守伊之助」に昇格するまで二場所の間、実は大相撲には「立行司」が不在だったことがある。

更に「呼び出し」の世界、ここでも行司と同じように「立呼び出し」が最高位になり、「三役格」「幕内格」「幕下格」と行った格付けがあり、「立呼び出し」「副呼び出し」がそれぞれ1名ずつ、「三役格」が3人、「幕内」「十両格」がそれぞれ5人ずつとなっているが、行司は全て番付に載るものの、「呼び出し」は十両格より下の格付けの者は記載されない。

「行司」や「呼び出し」の世界と言うと、軍配を持ったり、呼び出しをしたりだけが仕事かと思うかも知れないが、その実土俵以外の仕事も多く、「行司」は事務的な仕事、「呼び出し」は土俵作りなどの肉体労働もしなければならず、ちなみに大相撲巡業の移動などでグリーン車が使えるのは、「呼び出し」の「三役格」以上と言う事になっている。

また大相撲の基本となるべき「番付」だが、これは実は「行司」が書いていて、用紙は和紙で縦が57・5cm、幅が43・8cmで、5段に分かれているが、上段にいくほど地位は高く、下段になるに従ってその地位は低くなり、幕下以下では俗に「虫眼鏡」と言って、虫眼鏡で見なければ分からないほど小さな字で書かれている。

「番付」の文字書体は独特であり、こうした書体のことを「根岸流」と言い、通常は「幕内格」クラスの「行司」が主導してこれを書いているが、近年私の知るところでは1990年中ごろに活躍した「木村容堂」などが印象に残っているが、現在は2007年から「番付」を担当している幕内格行司、「木村恵之助」の手によって番付表が書かれていると聞いている・・・。

※ 本文は2010年11月27日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「グリーン車に乗る」

    祭りは神事が始まりで、今も神事だけれど、一部は形骸化して娯楽の面が強くなり、在ろうことか、神が宿る神輿~山車等の屋根に乗り、つまり神~形代を足で踏みつけるとか、それを地面にたたきつけるとか、妙な進化系もある。

    角力~異形の者~神の代理に近い者共が行う力士の四股によって大地の邪悪な霊を踏み鎮める、と言う事は神代の記録にもあるし、正史にもあるようだが・・

    子供の頃、小さな町であったが、相撲が盛んで、大相撲の巡業が何回か来た記憶がある。それは温泉地が有って、宿泊に便利でもあったし、中学校の横に、立派な屋根付きの土俵が有ったのも影響していたのだろう。
    そんなに大勢が来た訳では無いが、三役以上は、特急で来て最寄りの駅に降りて、タクシーで温泉宿に行って宿泊、下役の者は、普通貨物か客車に引かれて来て、引き込み線に留め置かれた特別改造車両に宿泊したようだった。
    相撲の興行は大人気で、本場所を小型にしたように、酒食を楽しみながら挙行されたが、今は昔。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      相撲は元々が神事でしたから、本来勝敗よりも姿や景色、勢いの美しさに主体が有ったのかも知れませんね。
      汚い勝ち方や潔さの無い勝負は今でも嫌われますが、外国人力士の多くなった日本の相撲界も、少しずつ変化してきていると思います。
      私自身は相撲は好きでは無いのですが、横綱の奉納相撲などで、御幣を付けた姿などは悪くない気がします。

      どうやら今ほど能登地方に地震が有ったようです。
      遠くからゴーと言う音が聞こえて、かすかに揺れました。
      震度はおそらく1以下でしょうが、今日の天気は風もなく、何となく空気が体にまとわりつくような天気でした。
      もしかしたら今夜、もう一度震度4くらいの地震が発生するかも知れません。
      場所は能登半島か新潟県中越沖でしょうね。
      何もなければ嬉しいのですが・・・。

      コメント、有り難うございました。

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