「言語の崩壊と肉体の復活」

視覚は確かに絶対的な情報であることに違いない。

人類が二足歩行を始めて以来、いやそれ以前から生物が持つ情報収集能力と、それを解析するシステムは、「視覚」をその情報と言うものの頂点に位置させて発展してきたことは疑う余地の無いものだ。

しかしこうした「視覚系」の進化の過程に措いて、他の4つの感覚、つまりは聴覚、臭覚、味覚、触覚などの感覚が「視覚」の舞台裏や大道具的な役割を果たしてきたことを忘れてはならない。

視覚情報と他の4つの感覚情報は、情報処理システムである「大脳連合野」を通して互いに情報を交換させながら、その情報に肉付けを行い、情報の統合作用を行っている。

従って例えば「視覚」で確認したポスターの料理には、その料理の匂いがイメージされ、食べた時の感触の記憶が添付され、知り得る限りの「味」の情報が加えられ、更には湯気を立てて鉄板に乗る、肉の焼ける「ジュー」と言う音までが視覚と相互作用し、情報にリアリティーを与え、「お腹がすいた、これが食べたい」と言う感覚を起こさせる。

それゆえ人間が生きる上で、その極初期段階に措いて視覚のみが一人歩きした場合、視覚は他の4つの感覚の援助なしに情報を処理しなければならず、これは事実上視覚以外の「他界」を見ないことになる、「感覚的狭窄」(かんかくてき・きょうさく)に繋がっていく。

このことから幼い頃から視覚情報のみ重点が置かれた環境と、母親や父親と子供とのスキンシップの機会が失われやすい現代社会の「情報」と言うものは、常に表面的なものに陥っていく危険性が大きく、これが料理ならば凡その人間は感覚を経験で身に付けていくが、男や女と言ったものを視覚だけの表面的な情報で捉えることの危険性を鑑みるなら、現代社会で発生している事件の異様さを省みれば明白なことである。

例えば触覚に関して、生物の脳が発達する極初期の段階で、この触覚が意外に重要な役割を果たしていることが実験から知られている。

マウスの口ひげは、彼等が外界の情報を感知する上で重要な役割を持っているが、このマウスの口ひげを、脳が未発達な時に切ってしまうとどうなるか・・・。

マウスは口ひげで外界を知るために、この口ひげを脳が発達しない間に切られてしまうと、「記憶の記録」そのものが存在しなくなり、その結果成長しても口ひげでは外界を全く感知できなくなるのである。

すなわち外界からの刺激、視覚以外の情報を感知する感覚が、生物の適当な成長時期に存在しないとどうなるか、そこでは「記憶の記録」が欠損し、従って正常な脳形成が行われず、障害を持ってしまうのである。

実は現代社会の盲点はここに有り、視覚情報に限らずあらゆる感覚は「ネジの原理」を持っていて、何度かネジを緩めたり締めたりしている間にネジ径が広がって行き、やがてそのネジは正確にネジ径に入らなくなり、次の少し大きめのネジで締めなければならなくなる、こうした原理と同じ傾向を持っていて、視覚は特にこの傾向が強い。

あらゆる煌びやかな配色に、完全な「美」が視覚を刺激しても、それはまたすぐ次の「美」や「快楽」を求める導火線にしかならず、これには際限が無い。

しかも視覚にこうして強い刺激が与えられる状況が続くと、視覚が持つ欲望は加速度をつけてその欲求を満たそうとし、ついには現実の肉体や、事実がこれに追いつかなくなってしまうのである。

そしてここでは例えば夫婦でありながら、既に互いに性交渉への関心を失ったカップルが発生し、しかし刺激を求める欲求は膨張していくことから、妻以外の女性、夫以外の男性を相手に「快楽」のみを求める性交渉へと発展していく、若しくは完全に視覚のみ、つまりは映像の中の異性でしか、そこに異性を感じない状況が発生する。

現在私達を取り巻く環境を今一度考えてみるなら、例えば20年前には論争となった、週刊誌や写真集の女性の「ヘア」問題にしても、今ではそれぐらいのことでは誰も何にも思わないばかりか、女性器が完全に露出したDVDなどが、平気で販売されている時代であり、ここに臭覚や触覚など全く感じない、いわゆるリアリティが欠如した形骸に装飾や妄想を着せた、しかも形骸を払拭しようと悪戯に増殖された「人形的肉体」がはびこって行くことになった。

20世紀の近代社会は、欲望や生きることの生々しい現実、人間の身体的な部分を少しずつ切り捨てながら、片方でリアリティーを欠いた精神的な美しさ、現実感の無い人間性に価値観を求めた文明を築き上げてきた。

このことは人間から、人間が生物であることの現実を希釈し、そして本来精神と肉体を繋ぐための言葉を肉体から切り離し、意味の無いものとしてしまった。

人間の皮膚がその内と外を繋ぐ感覚器官であるなら、言語はまた精神と肉体を繋ぐ「メディア」であり、それは「感覚」と言うものである。

従ってそこには極めて現実的な肉体の存在が必要とされる。

ゆえにそれまでの古い価値観の言語体系が崩壊するときには、必ずそこに肉体の復活が起こるのであり、肉体が復活しようする時代は、言語の体系が完全に崩壊してしまうときである。

20世紀末、日本はバブル経済の崩壊によって価値観や言語体系を失い、そこで肉体の復活が起こったかのように見えたが、それは更なる現実と言語の乖離であり、肉体と精神の乖離の第一段階に過ぎなかった。

言語が五感と共に感覚を持っている社会は、人間は肉体の方向へとは向かわない。

しかし五感が失われた形骸の言葉が社会を支配するなら、現実の世界と離反してしまうなら、そこから生まれてくるものは肉体の復活であり、またこうして感覚と共立しない言語で有るがゆえに、そこに現れる肉体も同じように、臭覚や触覚と言った現実の生々しさを欠落させているのである。

目が見えない人は文字を習得できないかと言えばそうではない。

触覚でも努力すれば言語を習得できる。

言語がただの形式、絵文字、または発音でしか学習されないとしたらそれは何だ、母親の胸の柔らかさをただの「柔らかさ」として何が分かり得るのか。

言語を使うときは、そこに景色が眼前に広がり、人々が話す音が聞こえ、花の匂いを感じてこそ人間の言語となる。

子供を持つ者は、その幼き子供に言語を教えるとき、同時に触覚や、聴覚、臭覚、味覚を伴って教えると良い、つまりは現実を伴って教えると良いと言うことだ。

「視覚」だけに頼って育った子供は現実が薄くなり、そして欲望の回転だけが速くなった大人となってしまう可能性があり、そこから生まれてくるものは「フェティシズム」と言うものだ。

そして「フェティシズム」には果てしない破壊性が内包されている・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「言語の崩壊と肉体の復活」

    生きている人間の価値は、どんな状況においても、等価と言う事で理解されているが、勿論そう言う事が有りうるわけではない。そう決める、と言うだけである。それで何とか現代の形式民主主義は保たれている。
    自縄自縛に陥っているが、これが外れると、社会は暗黒へ落ちるので、そうしているのは知恵であろう。

    色んな感覚機能~認知機能~知識~思考などは、どれも密接に関連しているが、実はいわゆる常識的行動を取るには聴覚が可なり重要な要素を占めているらしい。詰まりは、特段の配慮無くして、ある人が全く聞こえない状況で、各種意思伝達をした時、周りの行動~動作の音、実際に発せられた言葉などが意味することに対して、思考~知識が洗練される機会を大幅に奪って、そうでない者が想像も出来ない行動を誘発する知見が最近蓄積されてきたらしい。
    卑近な小さな例では、近年の自動車は、騒音が余りにも無く、以前には無かった直ぐ後ろの車が認識できず、危険行動をすることもその一つ。

    でもまあ、ヒトはそれぞれ欠点だらけで、何とか生きては行ける~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      人間と言うものは、近くで見ると結構汚いものでして、汗もかけば、埃で汚れたりもする。
      また、時に嫌な事も言われるし、排泄もすれば放屁もある。
      でもアニメーションやDVDに出てくる男女は、そうした部分が見えないし、また自分が思う通りの反応しかない訳です。
      当然生身の男や女ともなればそうは行かない。
      そして近くから見れば生物独特の気持ち悪さも伴うとしたら、生身の男や女は面倒で不潔なだけ、と言う事になってしまいます。
      少子高齢化社会が何故発生するか、よく理解できるかと思います。
      更にこうした事が続いていくと、最後は生死の概念が甘くなってしまう。
      呼吸をし、ものを食べて生きていると言う現実感がなくなれば、生死の境は曖昧になてしまいます。
      凶悪犯罪が増加するのも当然と言えば当然です。
      しかし、その一方で平易で薄い人間性や感動は求められる。
      共に現実を伴わない両極端な社会が出現してしまう訳ですが、日本は既にそう言う社会になってしまっている気がします。

      コメント、有り難うございました。

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