「チェスター・ニミッツ」・Ⅲ

1909年潜水艦「ブランジャー」艦長に就任したニミッツは、その後長い間潜水艦勤務が続くが、テキサス生まれの闘志と忍耐力を持った彼にとっては、こうした潜水艦勤務は決して肌に合わないと言うものではなかったに違いない。

一見して田舎を想起させる素朴な風貌、決して大声など出さないまじめタイプだが、その割には周囲に威圧感の無いニミッツは部下達からの信頼も厚く、そうしたニミッツのテキサス訛りを聞いていると、どんな非常時でもどこかで「心が静まった」と評するのは、彼の部下だった「レイモンド・スプルーアンス」大将である。

1912年3月のことだった。

ニミッツは潜水艦「スキップジャック」の艦長に就任していたが、その潜水艦が洋上訓練をしていた際「ウォルシュ」と言う二等機関兵が誤って海に転落、波にさらわれた事があった。

ウォルシュ二等兵は機関のカマたき専門で泳げない、ついでに海は大シケの状態でウォルシュ二等兵はアッと言う間におぼれていったが、この高波では誰も海に飛び込めず、ただ祈るしか無い状態となった。

もうだめかと思われたその時、後ろから兵隊達をかき分け、冷たい海に飛び込む男がいた。

チェスター・ニミッツだった。

艦長が二等兵の為に冷たい海に飛び込み、そして自身も溺れそうになりながらもウォルシュ二等兵を助け上げた。

この事件のことはその後全海軍に知れ渡ることとなり、二ミッツの部下思いは大きな感銘を与えたのだが、誰よりもニミッツに感動したのは「スキップジャック」乗組員の内の11名であり、彼等はそれまで出していた転属願いを全て取り下げたのである。

ニミッツの戦争の概念、勝利の概念はその経済性にある。

戦争では全ての敵陣を撃破し、それを入手しようと考えるが、これは戦力の分散になるだけで、必要の無い敵基地はそもそも攻める必要が無い。

その場に置いて敵が負けたと自覚できる基地を落とせばそれで勝利となる。

また敵の近くに自軍基地が無くても、敵が来るのを待てば良いだけのことであり、従って作戦は常に勝利か、最も自軍の損耗が少ない形を実施すれば、それが勝利とはならなくても勝利と同じ効果を持つ。

ニミッツは太平洋戦争中一貫してこの方針を貫くが、こうした有り様は日露戦争の日本海軍でも同じ思想があった。

すなわち全ロシアを征服しなくても、何をすればロシアに勝つことになるか、これを正確に読み取ったところに東郷平八郎や日本の為政者の勝利があり、こうした思想の反対側にあったものが太平洋戦争時の日本軍だったが、二ミッツはこうした日本軍でも評価すべきものは戦争終結後の回顧録で評価している。

その一人は日本海軍最後の連合艦隊司令長官となった「小沢治三郎」に対するものだが、チェスター・ニミッツは彼をこう評している。

「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だと言うのは、何も知らない者の評価に過ぎない。指揮官の成果はむしろ彼が持つ可能性にある。敗軍の将と言えども、彼に可能性が認められる限りは名将である。オザワ提督の場合、その記録は敗戦に次ぐ敗戦だが、彼はその敗北に中に恐るべき可能性をうかがわせている。恐らく彼の部下達は、彼の下で働く事を喜んだに違いない・・・」

晩年チェスター・ニミッツは一つだけ心残りがあると語っていた。

「東郷提督の後輩達を相手に日米艦隊決戦で戦って見たかった、自分が手本としたものを超えることができたのか、それを知りたかった・・・」

グァムで陸上から指揮するニミッツ、大砲を撃ち合うような日米艦隊決戦はついに訪れなかったが、もしそのようなことがあったなら、彼は必ず艦隊に直接乗り込んで指揮を振るったことだろう。

敗軍となった日本海軍、しかしそうした中でも評価すべき者はしっかり評価し、敬意を払った数少ないアメリカ軍人、チェスター・ニミッツ、あなたが求めたものと、私が求めているものは全く違うものかも知れない。

だがあなたはどう思われるだろうか・・・。

日本とアメリカの関係はこれで良かったのかどうか、これが命がけで祖国の為に戦って得るべき、それぞれの国家の有り様だったのでしょうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 戦時・国家の危機では発想の転換~~♪

    戦後は兎も角、江戸時代でも、勿論貴族社会だった平安時代でも、抜擢人事は多かったし・・平時は年功序列~戦時は大抜擢を遣るべきでしょう。南雲中将が悪いとは思わないが、砲術出身だし、空母機動艦隊の司令長官は、航空の山口多門が適任だったかも、ミッドウェー海戦で戦死しましたが。

     東郷平八郎と若かりし頃、逢って感銘を受けた、チェスター・ニミッツ元帥は、太平洋戦争開戦直後、当時、序列28番目の少将から中将を飛ばして大将に昇進し、太平洋艦隊司令長官に就任した。
    ニミッツは猛将だったが、終生変わらず、質素な生活で奥様を愛し子供たちを愛した。

    発想の転換~いくらハル・ノートで追い詰められたとしても、英米に宣戦布告なんかしないで(笑い)、資源の無い真珠湾何か攻撃しないで、うっちゃらかしてブルネイを攻略して石油その他の資源を南方から入手、英米が痺れを切らして、宣戦布告して来たら、大東亜会議を即座に開いて、大東亜共栄圏を宣言すれば良かった(笑い)

    チャーチルは開戦劈頭に、「この戦争に勝利した」と思っただろうけれど、勝利して20年もしない内に、ほぼ全植民地を失い、あの勝利は、何を意味したのか考えただろうが、晩年未だ正気だった時に、歴史家が、如何思うか聞いて見れば良かったのに~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      民主主義は最低だと言ったチャーチルの言葉には、既にこの時代植民地政策が限界を迎えていた事を含んでいるだろうと思いますが、世界的に独立の機運が高まり、これを利用してアメリカはイギリス、フランスの支配を軽減して行っただろうし、同じようにそれまで植民地だった地域は独立に向けた動きを始めていました。

      この中で少なくともイギリスの威信だけは守ろうと言うのが、チャーチルの最低限度の条件だったかも知れません。
      しかしそれには何とかしてアメリカをヨーロッパ戦線に巻き込む必要が有った。

      日本はこうしたそれぞれの国家の思惑の中でイノシシのように硬直して突き進んでしまった。
      ニミッツは悲しかったでしょうね・・・。
      自分が尊敬した大日本帝国海軍の、余りにも愚かな動きと指令系統の不備、最前線の管理能力の弱さ、「おいおい、もっとしっかりしろよ」と思いながら見ていたと思います。

      精神論では勝てない。
      これをニミッツに教えたのは大日本帝国海軍だった。
      しかし、それを昭和の帝国海軍が忘れている。
      戦う者としては、一抹の寂しさを感じたことでしょう・・・。

      コメント、有り難うございました。

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